I
皆さん、あけましておめでとうございます。
私たちの教会は、自分たちの進んでゆく方向が何であるかを、もう一度考えるという課題を抱えています。教会はスピリットがなければ立ちゆきません。それはひとことで言えば、「イエスに従う」ことです。
では、そのイエスは、何をするためにこの世に来たのか。そのことを、ルカによる福音書のテキストを手がかりに、いっしょに考えてみましょう。
II
今日のテキストは、福音書の文脈上、イエスが最初の公的活動を開始した場面に当たります。内容的には、イエスが故郷ナザレ村の会堂礼拝に参加して、そこで聖書を朗読し、説教をしたというものです。イエスがこれから行う宣教活動のスピリットを、前もって説明するという意味で、プログラム的な位置を占めている箇所です。
その前に、ルカ福音書が前提している場所の移動にふれておきます。イエスと両親の居住地はナザレです。母マリアへの受胎告知(1,26以下)もナザレで生じました。洗礼者ヨハネを妊娠中の親族エリザベトを、マリアが南部ユダヤ地方の「山里」――どこなのでしょう?――に訪ねたり(1,39)、婚約時代の両親がローマ皇帝の住民登録令を受けて、同じく南部の「ベツレヘム」に旅したときに長男イエスが誕生したり(2,4)、ベツレヘムでの産褥明けにエルサレム神殿で犠牲を奉納したり(2,22)、毎年の過越祭に神殿にお参りしたりした(2,41)以外、イエスは両親とともにナザレで暮らし、そこで育ちました(2,51)。
他方、成人した洗礼者ヨハネが南部ユダヤのヨルダン川一帯で活動を始めたとき(3,3)、イエスも彼から洗礼を受けました。つまりナザレを出て南に移動したのでしょう。引き続いてイエスは、ユダの荒れ野を彷徨って悪魔の誘惑を受け(4,1以下)、悪魔に勝利したのち、「霊の力に満ちて」ガリラヤに戻り(4,14)、故郷の村ナザレの会堂礼拝に参加した(4,16)――そのころ彼は「ほぼ30歳」だった(3,23)――というのが、今日のテキストの状況設定です。
これらの描写から見えてくるのは、第一にイエスがガリラヤ地方のナザレ出身であり、両親が敬虔なユダヤ教徒であること。第二に、彼らの宗教的中心がエルサレムを含む南部ユダヤ地方にあること。そして第三にイエスは、独自の経験をへてガリラヤで宣教活動を開始した、つまり今日の場面は〈一皮むけた〉あとのイエスの故郷デビューであることです。
III
安息日の会堂礼拝では祈りが唱えられ、モーセ五書と並んで預言書からも朗読がなされて説教も行われました。さきほど朗読した、「聞け、イスラエルよ、我らの神、主は唯一の主である」で始まる申命記6章4節以下は、冒頭の一句「聞け」(ヘブライ語で「シェマー」)に因んで「シェマーの祈り」と呼ばれ(さらに別の聖書箇所が加わります)、会堂礼拝でも必ず唱えられました。
イエスは、預言者イザヤの書からの朗読を担当したようです。そこに次のような言葉があったというのです。
「主の霊が私の上におられる。貧しい人々に福音を告げ知らせるために、主が私に油を注がれたからである。」
これはイザヤ書61章の冒頭からの引用です(七十人訳聖書)。預言者は自分の召命について語っているのでしょうが、ルカ福音書の文脈では、ほとんどイエスの召命です。つまり「主の霊」を受けて、「油を注がれた者」つまりキリストにされたのは、ヨハネから洗礼を受け、悪魔と荒れ野で戦って勝利し、「霊」に満ちてガリラヤに帰還したイエスです。
そのイエスの使命が「貧しい人々に福音を告げ知らせる」ことにあるというのが、この聖書引用の文脈上の意味です。
IV
さらに引用は続きます。
これは先ほどからのイザヤ書61章1-2節の続きです(4行目だけが同58,6から)。そしてイエスは、「この聖書の言葉は、今日、あなたがたが耳にしたとき、実現した」(21節)と宣言します。つまりイエスの公的活動は、イザヤ預言の実現であるという意味です。
「主の恵みの年」と訳された箇所の原文は「主の受け入れられる年」で、おそらくは〈神の意にかなう年〉という意味です。これが49年に一度、いっさいの負債が帳消しにされ、土地を失って奴隷にされたイスラエル人も、元の身分をとりもどして自分の土地に帰ることができるという「ヨベルの年」(レビ記25章参照)であるかどうかは、いまひとつはっきりしません。
興味深いのは、ヨベルの年への言及とイザヤ書61章1節以下の引用が結合している事例が、いわゆる死海文書にあることです。第11洞窟から発見されたメルキゼデク断片と呼ばれる文書で(11QMelch)、成立はBC75-25年と言われています。そこでは「終わりの日に」、伝説のサレムの祭司メルキゼデクによる民族の解放が期待されています。彼は「霊を注がれ」た祭司、王たちよりも高位にあり、天使たちに支援される存在です。
つまり、ここでイエスが引用したとされるイザヤの言葉は、ヨベルの年の観念と結合して、すでにイエス以前ないし原始キリスト教以前に、終末論的な解放への夢として語られていました。ルカによる福音書は、この夢の実現を――メルキゼデクではなく――ナザレのイエスに帰しています。
V
イエスは「今日、この書物(の言葉)は君たちの耳の中で満たされている」と言います(21節の直訳)。「今日」という言葉に注目しましょう。この言葉は、先ほど朗読した申命記にもありました。
「今日、私が命じるこれらの言葉を心に留め、子供たちに繰り返し教え、家に座っているときも道を歩くときも、寝ているときも起きているときも、これを語り聞かせなさい。」(申命記6,6-7)
この「今日」という言葉は、間もなく約束の地に歩み入ろうとしているイスラエルの民に向かって、指導者モーセが語りかけたとされる言葉の一部です。そして今、会堂の礼拝で、申命記のモーセの言葉を聞く人々にとって、それは民族建立時代という過去の言葉でありながら、彼らの現在をも指しています。ここには物語を通してなされる、過去の歴史の現在化があります。
同じことがイエスの言葉にも、しかもいろいろな意味で当てはまります。第一に、大昔の預言者イザヤの言葉は、イエスの「今日」にあって実現した。第二にイエスのいう「今日」は、そこでイエスの活動が報告されるルカ福音書という物語空間の全体を包摂するでしょう。イエスの地上の活動の全体は、このイザヤ預言の実現であったという意味です。そして第三には、この福音書の朗読を聞く私たちも、この「今日」の中に含まれます。
そもそも「今日、この聖書(の言葉)は君たちの耳の中で満たされている」というイエスの発言は、発言者の外側にある何らかの客観的な事態を記述しているのではありません。イエスはむしろ、この発言の中で、自分はイザヤ預言の成就という新しい現実を作り出すキリストだと宣言しています。
しかもイエスの「今日」は、時間とともに過去に過ぎ去る「今日」ではありません。それは私たちの現在をも規定しており、彼は私たちを通してその使命を行うと理解して構わないと思います。
VI
冒頭で、新しい出発に当たり、私たちの教会はその使命を再確認する必要があると言いました。そして教会活動を導くスピリットとは「イエスに従う」ことであるとも。ルカ福音書によれば、イエスの使命は、弱者に喜びと解放のメッセージを伝え、なおかつそれを実現することでした。このことは、古の預言者の言葉の成就であると同時に、現在の私たちにも向けられた課題です。
寒くなると、東日本大震災の直後の被災地で、生き残った人々が雪の舞い散る中、食糧と生活物資を運ぶために、延々と歩いていた姿を思い起こします。「押し潰された人々を、解放のうちに遣わすため」というイエスの言葉と重なるように感じます。
(写真家・桃井和馬さんの作品がネット上にありますので、どうぞご覧ください。
http://www.asahi.com/eco/gallery/110904_unicef/u2-08_momoi.html)
そして地盤沈下して塩水につかったままの桜の木が、みごとに花を咲かせた姿も思い出されます。
(写真家・青柳健二さんの作品があります。
http://asiaphotonet.cocolog-nifty.com/blog/2011/05/post-1a68.html)
その可憐な花びらを見ていると、「貧しき人々に喜びの知らせを告げる」という使命が何であるか、分かるような気がするのです。イエスは十字架刑により没した後、死から起こされることによって、喜びの知らせ(福音)そのものとなったのでした。
このことを胸に刻みながら、私たちも新しい一年の歩みを始めましょう。