2011.11.20

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「希望に生きる教会」

村椿 嘉信

イザヤ書61,10-11; コリントの信徒への手紙一 12,26

 私は牧師として、私たちの教会が所属している日本基督教団やその東京教区などの様々な集会に参加する事があります。けれどもそういう集会の中で、これからの教会のあるべき姿とか、あるいはそれぞれの教会がどのような宣教活動を行うべきか、ということに関しての活発な議論には、なかなか接する事がありません。

 そのことを私は非常に残念な事だと考えています。一部の教会、一部のグループの人たちはそのような機会を持っているのかもしれませんが、実際には、全体に広く呼びかけるような形で、丁寧な議論をしていくような機会はないのが現実です。むしろ自分たちと異なる考えの人たちを批判したり、あるいは現状を嘆いたりするだけの集会になってしまっている事がよくあります。

 特に、伝統的な教会のあり方を強調する人たちは、教会のあり方について今さら議論しても仕方がないと、議論する事自体を避けてしまうのはとても残念なことだと思います。教会のあるべき姿について今さら論じ合うような事はない、すべてやるべき事は明らかであって、あとはもう実践するだけだ、という考えの人たちがいるのです。

 そういう人たちは、いろいろな議論を積み重ねるとますます教会は混乱するだけであって、議論は何もプラスにならないと考えているのです。しかし、教会は具体的にどのような形を持つべきであるとか、どのような活動を行うべきであるとか、あるいはどのような制度が必要であるとか、どのような役職が大事であるとか、どういう形で礼拝を守らなければいけないとか、あるいはどういう奉仕活動をしなければいけないとか、そういう事があらかじめ決められているわけでは決してありません。

 イエスは教会という「組織」や「制度」についてはなにも語らなかったと言って差し支えないでしょう。使徒パウロも、教会はどういう所にどのように組織しなければいけないとか、どういう制度を持たなければいけないとか、どういう形で礼拝を守るべきだというような事を詳細に定めたわけではありません。教会は「こうでなければいけない」という決まりの上に成り立ったわけではなくて、むしろ私たち人間が、神さまに作られ、神さまに生かされ、神さまに愛されているものである、ということを覚えながら、その神さまのわざに自由に応答していく中で、いわば自然発生的に生まれたものであり、その時その時にふさわしい形をもつべきものである、と私は考えています。

 聖書の中に教会について書かれている箇所があります。しかしそういう箇所を読んでも、決して教会について一から十まですべてを書き記そうとしているのではないという事がわかります。例えばパウロはコリントの信徒たちに宛てた手紙の中で、教会はどうあるべきかという事を議論していますが、教会について始めから終わりまで丁寧に一つずつの事を述べるのではなくて、パウロが設立に関わったコリントの教会の実際の活動を前にして、その中の様々な問題にどのように対応すべきかという具体的な方策を述べながら、教会のあるべき姿について語っています。教会のすべての問題が想定されているのではなく、パウロが生きていたその時代に、そこの教会が直面していた問題に対して、具体的にどのように考えていくべきかという事が、パウロの手紙の中には記されているのです。

 パウロは教会の中に様々な人たちがいて、それぞれ役割を担っている、そして全体として一つになって働くべきだという事を語っていますけれども、これは実際にそれとは正反対の事実があったからこそ、このことをパウロは論じているのだと言えます。もっと別の問題が表面化していたら、そのことについてパウロは書き記したでしょう。実際に存在している教会、その教会の中で問題が起こっている。それに即してパウロは必要な忠告を与え、そして教会は何であるのかという事をもう一度思い起こさせようとしている。それがこの手紙の主旨だと言えます。

 コリントの教会では、それぞれが声を上げている、それぞれが活発な活動しているように見えるかもしれないが、現実にはそれぞれが自分勝手な事を主張しているにすぎない。勝手な行動を起こしているばかりである。お互いに助け合う事をせず、ばらばらで全体にまとまりがない。その事をパウロは直視し、それに対し「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(26節)それが教会ではないかということを語り伝えようとしています。

 ここで注意しなければいけない事は、小さな声、声なき声が聞かれないという現実があったということです。右手と左手がいわばライバルのように、お互いに競い合っているだけなら、それは対等な自己主張であって、互いにライバルとして競い合って、どちらかがどちらかに苦しみ を与える、というようなことはないでしょう。けれども、「体の中でほかよりも弱く見える部分」(22節)が存在し、その人たちの声が無視されたり、重んじられなかったりするようになると、教会の交わりは崩壊してしまう事になります。そうならないように「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ 、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(26節)そういう交わりを教会の中に作っていかなければならないのだとパウロは強調しています。

 この12章という部分を読む場合に、パウロがコリントの信徒への第一の手紙の中で、どのような流れでこのことを書いているか、を理解する必要があります。12章では、まず「霊の賜物に生きる」という事が述べられています。そしてそれぞれが力を発揮し合い、またお互いに尊重し合って教会としての一つのまとまりを作っていくべきだと語られています。その流れはコリントの信徒への手紙一の13章へとつながっていきます。

 13章で書かれているのは「愛」についてです。ここは結婚式などでもよく読まれる箇所ですけれども、コリントの信徒への手紙をずっと初めから読んでいくと、パウロは結婚式のためにこの13章を書いたなどということでは決してなく、むしろ教会の中に様々な問題があり、それを解決するために聖霊によって生きなければいけないということを示し、それをさらに突き詰めていく中で、愛によって共に生きる事が大切だと語ったのだという事が、その前後関係からわかります。

 パウロがここで愛について強調しているのは、パウロから見てコリントの教会の中には、まさに愛が足りない、だから愛し合って共に歩んでいく事が大事だ、それが最高の道であるという事を語るためです。そのことのために、この13章が置かれているのです。12章13章を通して語られている事は、まず聖霊によってそれぞれが生かされるようになるということです。自分の力によって主張するのではなく、神さまの力によって、聖霊の力を与えられて、それによって一人ひとりが生かされていく。そしてその一人ひとりがさらに愛をもってともに生きることが大切だということが記されています。

 聖霊は、時間とともに過ぎ去ってゆくものを生み出すのではなく、いつまでも残るものを生み出します。いつまでも残るもの、それは愛です。聖霊は渇いている心に水を得させ、闇の中にいる私たちの心に光を与え、諦めている私たちの行動に力を与えます。その聖霊が私たちにもたらす力というのは、まさに愛の力でもあります。私たちが人間の力に頼るのではなく、人間の知恵で判断するのではなく、神さまの霊に生かされながら、その上で私たちがそれぞれを生かしあい、ともに生きるときに、私たちは永遠にすたることのない愛の実を結ぶことが出来るようになるのです。

 それでは私たちはどのようにして新しい教会像を共に思い描き、力を合わせて実現に向けて歩んでいくことが出来るのでしょうか。希望をもって歩むことが出来るようになるのでしょうか。そのためには今確認したように、それぞれの霊の賜物をお互いのために生かしながら、小さな声の人たち、あるいは弱い立場に置かれている人たちを差別したり切り捨てたりすることなく、愛をもって共に歩むことが必要なのです。そしてそのために一人ひとりが声を上げてゆく、それぞれが力を発揮する、それぞれが支えあい、共に歩んでいくという事が大切なことだと思います。

 具体的な試みの一つとして、私が沖縄で経験したことを少し語ってみたいと思います。沖縄教区では、『沖縄にある望ましい将来教会の在り方』という文章を発表しました。教区の特設委員会を作り、何回か全体協議を開き、総会にかけ、約4年間かけて教師、牧師、信徒の皆さんたちと共にこういう文章を作り上げたのです。ここには沖縄教区の教会の未来像が描かれていると言っても過言ではありません。各教会の枠を越えて、教区の単位で議論を戦わせながら考え、作成しました。この文章は、結論を先取りしてこうあるべきだ、こうあらなければいけないという事を述べているのではなく、こういう点についてはこういう風にしてみんなで共に考え、責任を担っていこう、というような、どちらかというと漠然とした方針を描く文章となっています。

 対話を呼びかける文章であることは間違いありませんけれども、対話を呼びかけながらも、共に新しいあり方を模索し、そして困難な時代の中にあって未来を共に切り開いていこうという姿勢を打ち出すものとなっています。ここでは断定的にこうであると物事を決めてしまうのではなくて、少数意見を大切にしながら、それをどのように全体の中で生かしていくことが出来るのかという事を問題にしています。

 この文章の中にはさまざまな人たちの意見が集約されていて、今でもこの文章を読み返してみると、この部分はそもそも誰が発言したことだとか、これは誰が主張したことであるとか、そういうことを思い起こさせます。必ずしも整合性のある文章ではなく、むしろ寄せ集めのような感じすらする部分があるのですけれども、協議をしていく場で、それはそれでいいんじゃないか、それぞれの文体があったり、さまざまな考え方や視点があって、それが混ざり合ってひとつの未来への指針を考えていく呼びかけとなる、そういう文章でいいのではないか、ということでまとめられたのです。

 この文章は第一章から「沖縄に立つ教会」となっていて、そのまま日本の各地で活かすことは出来ないし、またそのような形で書かれたものではありませんけれども、つい最近も沖縄で、沖縄以外の教区の方々がこの文章についての学習会を開いたという話を聞きました。そのようなことができてとてもよかったと思います。結論を先取りしたり、あるいはこうである「べき」だと決めつけるのではなく、またこれが当然なんだという事を確認させるための話し合いではなく、今教会が直面しているいろいろな問題を、皆さんと共に考えていく、その中でいろいろな意見を出し合うという事を一つの形として示したことは意義のあることだと思います。そのような試みがすでにあちこちでなされている。私たちは東京においても、この教会においても、もっともっとこのことを実行していかなければならないのです。

 私はかつて滞在したことがあるドイツ・ケルンで、そこのプロテスタント教会の活発な議論に参加したことがあります。私がいた地域はケルン中央教区という教区に属しておりました。私はケルンの一部であるリンデンタール地区の役員会や、ケルン中央教区の総会などに参加する事ができました。教区総会は年に二回、しかも二晩にわたって開催されていました。その中で多くの事を学ぶ事ができました。またドイツではプロテスタントの大きな全国集会があり、そこで若い人たちも年配の人たちも、今日の宣教のあり方や教会の組織について、様々な角度から議論をし、そしてそれを新たな活力として前へ進んでいこうとしている。そういう姿を見る事もできました。

 カナダやアメリカでもそのようなこころみがなされていると聞いています。二一世紀における新しい教会と社会のあり方について、ヨーロッパやアメリカの国々の教会が、希望に満ちた、わくわくするような議論を続けています。キリスト教の伝統の長い国においても、新しい議論が排除されることなく、むしろ二千年の教会の伝統に生きている教会こそが、さらに未来へ向かっての積極的な新しい議論を始めようとしているのです。

 この『沖縄にある望ましい将来教会の在り方』でも、信仰告白について、あるいは聖餐式について、「結論」は出されていませんけれども、新しい開かれたあり方を目指して対話をしていこうという「姿勢」がはっきりと打ち出されています。現状の問題点を認識しながら、しかし新しい方向を目指していく議論を持つことが、とても大切です。私は、それがパウロが目指した方向と一致するのではないかと考えています。それは私だけの考えではなく、そういう風に考える人たちが教会の中で多いからこそ、世界中でこのような活発な議論がなされているのではないでしょうか。

 自分を誇るのではなく、対話にならないような自己主張を繰り返すのではなく、聖霊によって自分が生かされている事を覚え、神さまに自分が用いられていく事を求めて生きる。そして愛を持って歩みながら教会の問題を克服し、神の国に向かって前進していく。そのことが私たちに求められているのです。

 今日はこの礼拝の後に全体協議会が持たれますけれども、そこでも本当に愛を持ちながら、共に今この教会がこの時代にふさわしく歩んでいくために、そしてさまざまな問題を克服していくために、時間をともに過ごす事ができればと心から願っています。その場が、私たちの教会が本当に神さまの力に生き、そして神さまの言葉をふさわしい形でもって宣教していく、その目的のために、さまざまな事をともに考える事ができる時間になればと思っています。

 私たちにとって求められている事、それは今神さまが本当に何を望んでいるのかを知ることではないかと思います。その神さまの力によって私たちが生かされ、そしてこの日本において、この東京において、私たちがふさわしい形で神さまの宣教のわざを担っていく、そういう使命が与えられているのです。私たちにはもっともっと積極的に、今のこの日本に向かって伝道していく姿勢を持つことが必要です。

 私たちはともに苦しみ、また共に喜びながら、歩んでいくことが求められています。それが私たちこの教会においても、またそれぞれの生活の中においても、神さまが望んでいることであると、私たちは今日この聖書から学ぶ事ができます。

※ このテキストは村椿牧師の自筆によるものではなく、後日録音から起こしたものです。

 

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