2011.7.31

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「真理の霊」

廣石 望

イザヤ書66,10-14; ヨハネによる福音書16,1-15

 

I

 「真理」という言葉は、最近あまり人気がありません。少なくとも大上段に構えて使うことは難しくなりました。とりわけ近代史の中で「真理」は、政治イデオロギーや科学技術と結びついて、しばしば権力の横暴を正当化する口実に使われたからです。加えて現代社会の価値観は多元化しました。ある文化にとっては当然のことも、他の文化から見ればそうではありません。〈これが真理だ〉と主張すると、「あなたといっしょにしないで」と言われるのがオチです。

 古来、〈真理とは何か?〉という問いにはいろんな答えがあります。それは発言が事実と一致していることである――例えば「いま雨が降っている」という発言が実際の雨降りと一致している――とか、ある発言とそれが前提にしている理論体系との整合性のことである――例えば「三角形の内角の和は180度である」という発言がユークリッド幾何学の体系と整合的である――とか。

 では、キリスト教における「真理」とは何でしょうか。事実との一致や理論システムとの整合性という説明は、ちょっと違うように感じられます。他方でキリスト教もまた、異教徒や異端に対する迫害や女性差別といった、「真理」の名による暴力の歴史をもっています。ヨハネ福音書が「真理の霊」と呼ぶものは、果たして私たちに本当は何をもたらすものなのでしょうか。

 

II

 今日の箇所の冒頭に、ユダヤ教の会堂がイエスの弟子たちを追放するだろう、という発言が現れます(2節)。これは歴史上のイエスの発言というよりは、彼の死の約40年後に起こった第一次ユダヤ戦争(紀元66-70年)におけるユダヤ側の敗北が、当時のユダヤ人社会にもたらした傷跡について証言するものと考えられています。

 戦争に負けた結果、かつての権力構造は崩壊しました。対ローマ武装闘争を中心的に担った熱心党と呼ばれる民族主義グループ、ヘロデ王家と結びついた貴族階級、そしてエルサレム神殿と結びついたサドカイ派と呼ばれる祭司階級は軒並みその基盤を失いました。それでも生き残ったユダヤ教徒たちをやがて再編成したのは、かつてファリサイ派と呼ばれた人々でした。そしてこの新しい指導層は、民族の再編成にさいして、いくつかの集団を「異端」「裏切り者」として排除しました。もはや同胞とは認めないという意味です。その中に「ナザレ派」つまり後のキリスト教徒も入れられ、呪いの対象にされたのです。

 つまりヨハネ福音書を生み出した人々は、どんなに立場が違っても先祖代々そして未来永劫に亘ってともに生きる、と信じてきた帰属集団から強制的に排除され、分離されるという経験をしています。この状況を克服するためにこそ、ヨハネ福音書は書かれたという仮説があるくらいです。「真理」は、アイデンティティが危機に瀕する中で問われています。

 

III

 ヨハネ福音書のイエスは、自分が去ってゆくせいで、弟子たちが「悲しみ」で満たされていると言います(6節)。この悲しみは、かつての民族同胞から排除される悲しみと、二重写しになっていることでしょう。真理はわれわれの側にこそあるのだから、それに同意しないあの連中はもはや放置してかまわないという態度に、この共同体は取り囲まれています。「あなた方を殺す者が皆、自分は神に奉仕していると考える時が来る」(2節)。迫害は、神に礼拝を献げることに等しいのですから、排除する側の人々にはそうされる者たちの悲しみは見えません。

 迫害とまではいかないまでも、似たようなことは今でも起こります。スイス留学中に、聖書の原典講読の授業に出たことがあります。そのとき日本語の注解書を机上で読みながら、ある釈義上の問題点について指摘したのですが、後から一人の学生が近づいてきて「それは何の本か」と私に尋ねました。「注解書だ」と答えると、「それはドイツ語からの翻訳だろう」と言うのです。「いや、独自の研究だ」と答えると、「そんなことはありえない」という答えが返ってきました。――自分たちは何千年もこの伝統で生きたきた。よそ者のお前に聖書が分かるはずがない、ということでしょうか。そこには、〈真理は自分たちの側にこそある〉という素朴な、しかし剥き出しの差別意識があります。ちなみに、この学生さんはごく普通の人です。

 

IV

 イエスは「私が去っていくのは、あなた方のためになる」と言います(7節)。自分が去って初めて、「弁護者」としての聖霊を送ることができるから、と。

 この弁護者の働きは、「世の誤りを明らかにする」ことにあります(原文は「世(の真の姿)をあらわにする」というニュアンス)。三つの点に分けて、それがさらに説明されます。すなわちイエスの人格を信じないという「罪」、イエスが弟子たちのもとを退去して天に帰還するという「義」、そしてこの世の支配者が断罪されるという「裁き」です。この共同体はイエスの不在と世の不信、また自分たちを圧倒的な力で否定する環境世界という厳しい状況を生きています。

 彼らが聖霊に期待するのは、こうした状況が本当は何であるのかを解明してくれることです。イエスへの不信が「罪」すなわち関係性の断絶をもたらす、ないしその結果であること、他方でイエスの不在は聖霊の到来を通して「義」すなわち命の絆の回復をもたらすこと、そして、これらのことが、この世界を支配している原理に対する「審判」つまり事実上の無効宣言になっていることを、聖霊は明らかにします。この世の支配原理とは、自分たちこそ真理を所有していると思い込んで、他者の尊厳を否定することと理解してよいかもしれません。

 「世」(/「世の誤り」)と私たちは、いったいどのような関係にあるのでしょうか? 三つほどのパターンが考えられると思います。――最初のモデルは、〈私たちは世から完全に切り離された聖なる存在であり、誤謬から完全に自由である〉という理解です。なるほどヨハネ福音書には、そのように読める箇所があります。それでもこの福音書を生み出した人々は、神がイエスを与えることで「世を愛した」、この世界は神に愛されていると信じています(3,16参照)。同時に、彼らは自分たちの価値の中心であるイエスの人格を占有できないこと、イエスが不在であることも認めています。

 二つ目のモデルは、〈私たちは世の一部であり、不信仰や誤謬からも自由でない〉という理解です。熱心な信仰者は、この理解に反発を覚えるかもしれません。しかし私たちは――ヨハネ共同体の状況とはかなり違って――じゅうぶんにこの世界の一部です。日本社会でキリスト教はなるほどマイノリティですが、この社会で生きてゆくための名誉をまったく剥奪されているわけではありません。むしろ高度に発展した資本主義のさまざまな恩恵に浴して生きています。他方で、不信仰も過ちも私たちの一部です。しかし信仰や真理があって初めて不信仰や過ちも問題になりうるのだとすれば、それはどこから来るのでしょうか?

 そこで第三のモデルを考えてみたいのですが、これは〈私たちは世の一部でありつつ、イエスによって聖別されている。同時にイエスを欠いているという意味で自らの中心に空洞をもち、それゆえに真理の霊の到来を待っている〉というものです。教会はキリストの人格すなわち真理を、決して所有物として占有することができないことを忘れてはなりません。賛美歌に「来たれ聖霊よ」とあるように、聖霊はつねに外側から「到来」します。それが私たちを救い、世界に向けて私たちを派遣するのです。

 

V

 最後にイエスは、「言っておきたいことは、まだたくさんあるが、今、あなた方には理解できない」と言います(12節)。――私たちにも〈今は理解できない〉ことがたくさんあります。しかし、だからといって「もうそんな話に耳を傾ける必要はない」とか「君が言うことは偽りだ」などと言わないことが大切です。まさにそのような声に囲まれながらも、ヨハネ共同体は手探りで未来を探したのですから。

 聖霊が「あなたがたを導いて真理をことごとく悟らせる」(13節)と訳された箇所は、原文では「あらゆる真理にあって(/によって)君たちを道案内する」というほどの意味です。「真理をことごとく悟らせる」という訳文にはすべての真理を一度に所有できそうな印象があるかもしれません――あたかも大量のデジタル情報をコンピュータの記憶装置に保存するように。しかし原文には「道」という表現が動詞表現に含まれています(ギリシア語「ホデーゲオー」の前綴りは「ホドス/道」の意)。真理とは生きるための真理であり、それはプロセスなのです。

 しかもこの霊は、自分から語ることを語るのではなく、「聞く」ことを語ると言われます(13節後半)。おそらくイエスの言うことを語るのでしょう。そしてそのイエスは、社会の中で「他者」とされた人々から「聞く」人でした。そのイエスに、父なる神は「持っているすべてのもの」を与えています。

 いったい復活信仰とは何でしょう?――それは、人々から棄てられたイエスを神が死者たちの中から起こしたように、この世界から無視された者たちの言葉を神が聞くと信じることです。またそれは、この世の一部でもある私たちにとって、真理は私たちの外側にあり、かつ繰り返し私たちのもとに「到来する」と信じることです。

 霊の到来のための条件は、イエスの退去です。真理の霊は、不在なる者との新しい出会いをもたらします。ちょうどマグダラのマリアが、自分から振り返ったときにはそれがイエスだと分からず、背後から名を呼ばれて二度目に振り返ったときに、復活者との新しい出会いを経験したように(ヨハネ20,11以下)。あるいは復活者キリストに出会ったパウロは、三日間、目が見えませんでした(使徒言行録9,9)。この出会いは、彼の人格をいったんは破壊し、新しい人に作り変えました。またマタイ福音書の復活者キリストは、弟子たちにあらゆる民族への宣教を命じた後に、こう言います。「私は世の終わりまで、いつもあなた方とともにいる」(マタイ28,20)。復活者との出会いは、信仰をもって新しい領域に歩みいるよう私たちを促します。

 本物の真理は私たちを変え、新しく出会わせ、未知の領域に進むという使命を与えます。それは〈自分たちの側にこそ真理がある〉という古い態度からの解放でもあります。伝統的に認められ、有意義で、権威ある、しかし抑圧的に作用してきた〈古い〉真理からの解放です。だからヨハネ福音書のイエスは、こう言います――「真理はあなたたちを自由にする」(8,32)。


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