2011.7.3

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「赦されて生きる」

村椿 嘉信

イザヤ書65,17-19; マルコによる福音書2,23-28

テキスト(旧約):イザヤ書65,17-19

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。
初めからのことを思い起こす者はない。
それはだれの心にも上ることはない。
代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。
わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとして
その民を喜び楽しむものとして、創造する。
わたしはエルサレムを喜びとし
わたしの民を楽しみとする。
泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。

テキスト(新約):マルコによる福音書2,23-28

 ある安息日に、イエスが麦畑を通って行かれると、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めた。ファリサイ派の人々がイエスに、「御覧なさい。なぜ、彼らは安息日にしてはならないことをするのか」と言った。イエスは言われた。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか。」そして更に言われた。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある。」


罪:

 聖書が問題にしている罪とは、何でしょうか。罪を赦されるということはどういうことなのでしょうか。一回の説教で、罪とその赦しについて、何もかも語るということはできませんが、聖書に語られている重要な部分を、今、少しでも明らかにできればと思います。

 罪とは、一般的には、刑罰を科せられる不法な行為を意味します。罪とは、まず第1に、法律上の犯罪を意味すると考えられます。

 自分にはその気がなくても、つい、罪を犯してしまうこともあります。沖縄にいたときに、車を運転していて、違法駐車をしたことがあります。30年近く沖縄にいましたが、ある時期から違法駐車の取り締まりが急に厳しくなりました。今までは駐車しても大丈夫だったので、今までどおり行動していたら、急にきびしくなって、罰金をとられました。それ以後は、違法駐車には気を付けていますが、いかなる理由があるとはいえ、違法駐車はりっぱな法律違反です。

 一般には、法律に反する行為を行っていなければ、自分は罪を犯したなどとは言いません。そのような中で、キリスト者が、「自分は罪人です」とか、「自分の罪を赦してください」などと言うと、何らかの犯罪を犯したのかと、誤解されてしまうかもしれません。

 しかし「罪」という場合に、成文化された法律に違反しなくても、第2に、社会の規範や風俗あるいは道徳などに違反した行為や過失などを罪と呼ぶことがあります。たとえ法律上の罪に問われなくても、権力者や政治家が自分のために行動したり、相手の行動を妨げたり、心を傷つけたりするのは「罪」であると考えることができます。

 第3に、宗教的な「罪」というものも考えられます。それぞれの宗教は、戒律とか、掟、あるいは決まり事を持っています。それに反するのは罪です。

 宗教によっては、1日に何回祈らなければならなとか、断食をしなければならないとか、これは食べてはならないとか、決まり事がさだめられていることがあります。それに違反すると、罪をおかしたと見なされます。

安息日に関する規定:

 先ほど、お読みしましたマルコによる福音書2章23節以下で問題になっている「安息日に関する規定」もそのような宗教的な戒律であり、これに違反する行為は、当時のユダヤ教においては「罪」とみなされました。

 ある安息日に、イエスは麦畑を通りぬけようとしました。その時、弟子たちは歩きながら麦の穂を摘み始めました。今日の法律、あるいは常識に照らし合わせるなら、他者の所有地に入り込んで、許可なく麦の穂を積んで食べるということはあきらかな犯罪行為です。私は法律のことは詳しくありませんが、家宅侵入罪、そして窃盗罪に問われることのなるのだろうと思います。しかしこのことは問題にされませんでした。それは、それを許可する規定があったからです。申命記の23章25節、26節にこうあります。

 「隣人のぶどう畑に入るときは、思う存分満腹するまでぶどうを食べてもよいが、籠に入れてはならない。隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」。

 この規定は、隣人どうしであれば‥‥ということが前提とされています。同じユダヤ人であれば、あるいは同じ村のものどうしであれば‥‥ということです。同じ隣人どうしであれば、お互いに相手の畑の中に入って、穂を摘んで、いくらでも食べてかまわない、しかし、鎌を使って収穫し、籠に入れ、そこから持ち出すことはしてはならないが、なかまどうであれば、空腹のときにとって食べることは許される‥‥というのがこの規定です。

 それゆえファリサイ派の人々が問題にしたことは、「なぜ、イエスの弟子たちは、安息日にしてはならないことをするのか」ということでした。

イエスの反論:

 このファリサイ派の人々の指摘に対して、イエスは答えました。「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか。アビアタルが大祭司であったとき、ダビデは神の家に入り、祭司のほかにはだれも食べてはならない供えのパンを食べ、一緒にいた者たちにも与えたではないか」。そして更に付け加えました。「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」。

 ところでイエスはここでファリサイ派の人々の指摘にどのように反論しているでしょうか。

 イエスはここで、「安息日の規定」について抽象的な議論を始めませんでした。ダビデやその供の者たちが空腹だった場合にどうしたかということを具体的に語っています。そして、「ダビデが、自分も供の者たちも、食べ物がなくて空腹だったときに何をしたか、一度も読んだことがないのか」と問題を投げかけています。イエスがここで語っていることは、私なりの言葉でいえば、「聖書を読んで、具体的な事例から学べ」ということです。このことはとても大切なことです。

 ファリサイ派の人々が「安息日の規定」を持ち出して、イエスの弟子たちの行動を非難しました。ところがイエスは、その規定の有効性について論じたり、別の規定を持ち出して反論するのではなく、聖書に書かれている具体的な事例を通して私たちが判断するようにと迫っています。

 イエスは宗教的な戒律や規定を守ることが大切なのではなく、聖書のさまざまな具体的な事例を学び、それを私たちの生活の中のさまざまな事例と結びつけながら歩むことが大切だと語っています。

イエスが問題にしたこと:

 そしてそのことを指摘したあとで、イエスはさらに、「安息日は、人のために定められた。人が安息日のためにあるのではない。だから、人の子は安息日の主でもある」と語っています。

 イエスはここで、「安息日」は、私たち人間のためにあるのだと語っています。

 だから「安息日の規定」も人間のためにあるのです。

 「人間のため」とはどういうことでしょうか。神の被造物である人間が、神につくられ、いのちを与えられて生かされているということを思い起こすため、地上にあるあらゆるものと人間を造った神に私たちが向かい合い、神に感謝をささげ、神を讃美するため、そしてさらにそのことを通して神の前で自分を見つめ直すために、安息日は定められたのです。それはまさに私たち人間を生かすために造られたのです。

安息日の規定を守ることが大切なのではなく、安息日は、神様に造られた私たちが生かされるためのもので、そのために神さまに向かいあい、神さまに生かされていることを覚え、神に祝福された人間として生きられることを感謝する日なのです。

安息日とは:

 イエスは最後に「だから、人の子は安息日の主でもある」と語っています。どうしてこのような言葉が最後に語られたのかを説明しようとすると、たくさんの言葉が必要になりそうです。大事なことだけ語ります。「人の子」はイエスのことです。

 安息日は、人を生かすためにあります。

 安息日に、私たちは神さまに向かい合い、神さまから力を受けます。

 安息日に、私たちは、私たちの主であるイエスのもとに立たされます。

 安息日に、私たちがすべきことは、イエスを先頭に弟子たちが麦畑に入り込んだように、

 イエスとともに歩むということです。

 安息日の規定を守ることが大切なのではなく、安息日であれ、それ以外の日であれ、私たちに先立って地上を歩まれるイエスに従うことが大切なことです。

 だからキリスト教は、その思いを生かすために、土曜日の安息日を廃止し、週の最初の日の朝に礼拝を行ってきました。そのことによって、キリストの復活を思い起こし、復活の主を讃美し、主のもとに歩もうとしました。

 イエスは、安息日のような宗教的な戒律や規定に反することを「罪」だと述べたのではありません。法律や社会規範、あるいは宗教的戒律に違反することを問題にしたのではなく、神に造られた私たちが、自然の豊かな恵みにあずかり、お互いに隣人としてともに生きていくかどうかを問題にしたのです。

 その意味で、罪とは、私たちが神に造られ、生かされているのに、そのような者として生きないことを意味します。そして罪の赦しとは、そのような私たちがもう一度、神のもとに戻って自分の力を頼りに生きるのでなく、神に生かされる者となることを意味します。

 法律的な罪を犯した場合は、法律上の規定に基づいて罪を償うことになります。法律に規定されていない道徳的、倫理的な罪については、それなりに社会的な状況の中で、責任をとらなければなりません。ただ法律にしろ、道徳にしろ、人間が生み出したものであり、それが適切なものかを常に議論する必要があります。宗教団体のさまざまな規則や宗教的な戒律については、それがひとりよがりのものにならないよう絶えず検証が必要です。宗教団体が信仰する神の名によって、人間的な集合体であるにすぎな宗教団体を絶対化したり、その宗教団体を維持するために都合のよい規則を作り出していないかを吟味する必要があります。

 でもイエスが勧めたことは、そういう次元の問題ではなく、人間を造り、生かす神さまの前で、私たち人間がその神さまの意志に応じて、全身全霊を込めて生きようとするかどうかです。そしてそのことは、神さまの赦しのもとに歩むときに私たちに可能になります。



主なる神さま、
あなたは私たちを生かすために、
私たちを目覚めさせ、私たちによいものを与えてくださり、私たちを支えてくださいます。
しかし私たちは、あなたの思いに応えて生きようとはせずに、
むしろ自分で目標を立て、自分の力に応じて、自分の思いどおりに歩んでいます。
その罪をどうか赦してください。
そしてあなたの働きかけに応じて生きるものとならせてください。
主イエス・キリストのみ名によって、祈り願います。
アーメン


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