2011.5.8

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「よい実を結ぶ」

村椿 嘉信

エレミヤ書17,5-8; マタイによる福音書 7,15-20

テキスト(旧約):エレミヤ書17,5-8

主はこう言われる。
呪われよ、人間に信頼し、肉なる者を頼みとし
その心が主を離れ去っている人は。
彼は荒れ地の裸の木。
恵みの雨を見ることなく
人の住めない不毛の地
炎暑の荒れ野を住まいとする。
祝福されよ、主に信頼する人は。
主がその人のよりどころとなられる。

テキスト(新約):マタイによる福音書 7,15-20

「偽預言者を警戒しなさい。彼らは羊の皮を身にまとってあなたがたのところに来るが、その内側は貪欲な狼である。 あなたがたは、その実で彼らを見分ける。茨からぶどうが、あざみからいちじくが採れるだろうか。 すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。 良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。 良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。 このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」


<木>と<実>の関係

私たちが、キリスト者として、信仰者としてどう歩むのかを考える場合に、イエスの「良い木は、よい実を結ぶ」という言葉はとても大切です。

イエスはマタイによる福音書の7章15節以下で、「良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ」のであり、「実によって、その木が良い木か、悪い木かを見分けることができる」と述べています。神を信頼しつつ、神とともに歩む人たちは、どのような実を結ぶことになるのでしょうか。

 

<良い木>が結ぶ<良い実>

そもそもどういう<実>が<良い実>なのでしょうか。パウロはガラテヤ人への手紙5章の16節以下で、「霊の導きに従って歩むように」と勧めています。そしてまず、私たちが、霊の導きに従わず、自分自身の肉体的な欲望に従って生きるとどうなるかを述べています。パウロによれば、私たちが霊の導きに従わないなら、私たちが神を信頼せず、自分に都合よく歩むならば、私たちが生み出すものは、「姦淫、わいせつ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、怒り、利己心、不和、仲間争い、ねたみ、泥酔、酒宴、その他このたぐいのもの」(19−21節)です。パウロは、「このようなことを行う者は、神の国を受け継ぐことはできない」と述べています。

パウロは、これに対して、「霊の結ぶ実」について述べています。パウロの言う「霊の結ぶ実」とは、<良い木>が結ぶ<良い実>のことだと考えることができます。パウロの言う<良い実>とは、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です(22−23節)。

ここに9つの言葉が並らべられています。ですから、これは「<良い実>のリスト」であるという言い方がなされることがあります。もう一度、繰り返してみたいと思いますが、<良い実>とは、「愛であり、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」です。パウロがこのようなリストをつくってくれたおかげで、私たちは、イエスの言う<良い実>をより具体的に、わかりやすく理解することができます。

でもこのようなリストが作られてしまうと、私たちはイエスの言おうとしたことを誤解してしまうことになりかねません。どうしてかというと、ここに9つの言葉がならべられていますが、これを守ればいいのだとか、あるいはこのうちのいくつまで実現できたのかを問うようになってしまうからです。場合によっては、このリストをもとに、自分に点数をつけてみようとするかもしれません。でもイエスが言おうとしたことは、このようなリストによって、人を評価したり、点数をつけて人と人、あるいは人と自分を比較することではありません。

またこのようなリストをもとにどう歩むべきかを考え始めると、私たちは、表面的に「良い行い」をするようになってしまいます。「どうにかして自分が人を愛していることを、相手に示そう。あるいは周囲の人たちに理解してもらおう。いや、そもそも神さまに理解してもらおう。神さまが、自分が<良い実>を結んでいると認めてくれるように、愛の業を行おう」というようになります。こうして、私たちは人の目や、神さまの目を気にして、表面的な生き方をするようになります。でもこう考えて歩み始めると、私たちはイエスの言葉からまったく離れてしまいます。

 

<実>を良くすることはできない

イエスは何と語ったのでしょうか。愛の<実>を実らせなさい、平和の<実>を生みだしなさい、<良い実>を実らせなさい‥‥と語ったのでしょうか。イエスは、確かに「愛しなさい、あなたがたは互いに愛し合いなさい」と繰り返し語りました。でも先ほどの箇所で、イエスは、決して「<良い実>を実らせなさい」とは語っていません。そうではなく、「<良い木>は<良い実>を実らせることになる」と語ったのです。ここで大切なことは、<良い木>となって、その結果として、<良い実>を実らせ、パウロの言うように、愛や喜びや平和や親切を生み出すことができるようになるということです。私たちが愛を持って生きることは、私たちが<良い木>になった結果として、可能になることであって、その意味で<良い実>を実らせることが大切なのです。でもそもそも<良い実>は、<良い木>からしか生まれてこないのです。

 

<木>を良くすることはできるのか

それでは私たちはどうしたら<木>そのものを良くすることができるのでしょうか。そもそも<良い木>の<良い>という言葉は何を意味するのでしょうか。何が<良い木>なのか、人間は<良い木>となるために何と何をすべきなのかと考え始めると、私たちはまたもやイエスの言葉から離れてしまいます。

イエスはそもそも<良い木>になりなさいと語っているのではないのです。

<木>はそもそも良いものです。私たち人間は、神さまに造られ、生かされている存在です。人間は、神さまに祝福されて歩んでいます。その人間に、神さまは水をかけ、太陽の光をもたらし、愛情を注ぎかけて、成長を待ち望んでいます。

つまり神さまの愛情を受けて育つ<木>こそ、<良い木>です。そして神さまは、あらゆる<木>に、あの<木>もこの<木>も、分け隔てなく、太陽を照らし、雨を降らし、愛情を注ぎかけています。

イエスが言おうとたことは、<良い実>を結ばせなさい、そのために<良い木>となりなさい。そのために努力しなさいということでは決してなく、「神さまの前で、神さまに愛されている自分を発見しなさい、そして神さまの愛情をいっぱい受けて歩みなさい‥‥」ということです。神さまは、一本一本の<木>に愛情をかけ、それぞれの<木>が成長することを望んでいます。この<木>とあの<木>を比較しようとはしません。その一本一本の<木>を、神さまは<良い木>と見なしています。だから神さまの豊かな愛をいっぱい受けて歩みなさい。そうすればその神さまの愛に支えられて、あなたも「愛の<実>」を、<良い実>を結ぶことになる‥‥とイエスは語ったのです。

私たちはここで、罪人であるにも関わらず、神さまがどれほど愛していてくれているかを感謝を持って覚えるべきだと思います。

どれほど神さまが私たち愛していてくれるのか、どれほど神さまの力によって私たちが支えられているのか、どれほど私たちが幸いを得ているのか、どれほど慰められ、励まされ、勇気づけられているのかを想い起こしましょう。そしてその神さまの愛と力によって、私たちがこの地上ですること、それが<良い実>なのです。<良い実>は、私たちが生み出すものではなく、神さまが神さまの力によって、私たちから生みだしてくれるものです。

 

<良い実>をむすぶこと

<良い実>について、さらにいくつかのことを確認したいと思います。

<良い実>は、いわば自然に、私たちの中から生まれてくるものです。私たちが目標を立て、目標に向かって努力するから生まれるものではなく、神さまの力によってひとりでに生まれてくるものです。ただそこで、人の目を気にしたり、自分にとって都合がいいかどうかと考え始めると、せっかく生まれた<良い実>を私たち自身の手で摘み取ってしまうことになります。

人の目を気にして、自分を良い人間だと見せびらかそうとすると、人の評価ばかりを気にして生きるようになります。そして私たちは、どこかで無理をして行き詰まったり、どこかでそのような自分の本音が出てきたりしてしまいます。

中には、人の目を気にしないで、善人ぶらないで生きよう、むしろちょっと冷たい人間を演じてみようと考える人もいます。素直に相手のために何かをしたいと思っても、それが言い出せない人もいます。いい行いをするのがはずかしいと考える人もいます。

相手に小さな親切をすると、あとでもっと大きな問題が生じた時に、何かを要求されるかもしれない。自分の親切に、相手は付け入ってくるかもしれない。人間関係はめんどうなので、できるだけ避けたいと考える人もいるかもしれません。しかし、神さまは孤独な生き方を私たちに望んでいません。そして私たちは、人を助けるだけでなく、以前にも説教で話しましたが、助けられ上手になる必要があります。自分の手におえないことは、誰かに助けてもらって、ともに支え合う関係を築くことが大切です。一方的に助けるだけでなく、ともに生きる関係こそが、私たちから生じる<良い実>だと言えます。

イエスの語った<良い実>は、決して義務ではありません。<良い実>を実らせることじだい、義務ではありませんし、ましてどのような<実>を、どのくらいの量の<実>を結ばなければならないかということが問題ではありません。そもそも神さまが<実>を結ばせてくれるのだから、私たちは、どんな<実>を、どれだけ生み出せたかということで誇ることはできません。

むしろ、自分には、こんなことを神さまがさせてくれた、そして自分は、これだけの<実>を結べたということで、それぞれが神さまのみわざをほめたたえるのだと思います。その意味で、この教会においても、何をしなければならないというような義務はありません。でもそれぞれが神様に生かされてこんなことができた、こんな苦労もあったけれど、人を助けることができた‥‥というような報告をし合えるといいと思います。ああ、こんなことなら、自分にもできるということがあるかもしれません。人と比較するのではなく、それぞれが神さまに生かされていることを覚え、またさらに支え合って歩むためにも、それぞれの思いや経験を交換し合うことはとても大切です。それは何よりも祈りにおいて支え合うために必要なことです。

 

<良い木>になることと、<良い実>を結ぶことの分裂

さて、最後に、現在のキリスト教の教会の中にも、まさにこの問題をめぐって誤解が生じているということをお話したいと思います。

一方において、私たちが<良い実>を結ぶことは義務であって、キリスト者は、当然これやあれをしなければならないのだと考える人たちがいます。パウロは、「愛、喜び、平和、寛容、親切、善意、誠実、柔和、節制」と語りましたけれども、人を愛さなければならない、平和のためにこれをしなければならない、こういう親切をしなければならない、こういう善意が大切だ、節制も必要だ‥‥というように<良い実>を結ぶことを義務だと考える人たちがいます。そして自分たちは義務を果たしているのに、どうしてほかの人たちは義務を果たさないのだろうと考えます。しかし先ほどから申していますように、イエスが求めたことは、義務ではなく、私たちが神に生かされ、愛され、神に促されて、私たちそれぞれの中から湧き上がってくるものを自然に行うことです。そしてこの地上に働く神のみ業に関わり、神の国をめざして生きることです。

さてこれとは対極に立つ考えとして、<良い実>を結ぶことは二の次であって、キリスト者として大切なことは<良い木>になることだけだと考える人たちがいます。神に生かされ、神に愛され、私たちが<良い木>になることだけが重要であり、教会は<良い木>を育てるところであり、<良い実>を結ぶかどうかを教会が関与する必要はないと考える人たちがいます。教会がすべきことは、魂の救いであり、天国を目指すことだけが重要であって、仮の世界であるこの世でどう生きるかは、この世の論理に従って歩めばいいというのです。神学的な用語に、「二王国説」という考え方がありますが、簡単に説明するなら、「私たちは、神の国に関することには神の国の論理に従って、地上の国に関することにはこの世の論理に従って生きるべきだ」という考え方です。

イエスは、私たちが<良い木>となることだけが大切なのだとか、あるいは<良い実>を結ぶことだけが大切なのだとは言いませんでした。今日の聖書の箇所がまさにそうですが、それ以外のところでも、イエスが求めたことは、私たちが神さまによって<良い木>として存在し、そこからそれぞれが<良い実>を生みだすようになることでした。私たちが自分の力にしがみついて生きるのではなく、神の圧倒的な力によって生かされるとき、私たちは、むしろ自分でも気がつかないうちに<良い実>を生み出すようになるのです。私たちは、自分が結んだ<実>を、自分の力でしたこととして満足して眺めるのではなく、それぞれの<実>を収穫する喜びをともに味わうことができるのです。

 

祈り

天の主なる神さま、
あなたが私たち一人ひとりを生かし、
愛を注ぎかけてくださることを感謝します。
あなたの力と愛を受けて、
私たちは日々、生かされ、成長し、
あなたが生みだしてくださる果実にあずかることができます。
そのことを覚え感謝します。
私たちがともに支え合い、補い合って、
愛の実、平和の実を収穫できるようどうか導いてください。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン


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