主は言われる。
盛り上げよ、土を盛り上げて道を備えよ。
わたしの民の道からつまずきとなる物を除け。
高く、あがめられて、永遠にいまし
その名を聖と唱えられる方がこう言われる。
わたしは、高く、聖なる所に住み
打ち砕かれて、へりくだる霊の人と共にあり
へりくだる霊の人に命を得させ
打ち砕かれた心の人に命を得させる。
わたしは、とこしえに責めるものではない。
永遠に怒りを燃やすものでもない。
霊がわたしの前で弱り果てることがないように
わたしの造った命ある者が。
貪欲な彼の罪をわたしは怒り
彼を打ち、怒って姿を隠した。
彼は背き続け、心のままに歩んだ。
わたしは彼の道を見た。
わたしは彼をいやし、休ませ
慰めをもって彼を回復させよう。
民のうちの嘆く人々のために
わたしは唇の実りを創造し、与えよう。
平和、平和、遠くにいる者にも近くにいる者にも。
わたしは彼をいやす、と主は言われる。
神に逆らう者は巻き上がる海のようで
静めることはできない。
その水は泥や土を巻き上げる。
神に逆らう者に平和はないと
わたしの神は言われる。
それから、群衆を弟子たちと共に呼び寄せて言われた。「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。
言葉というものは、それが使われる時代や地域によって、社会的、文化的、宗教的な背景によって、さまざまなニューアンスで使われます。たとえ似ている言葉であっても、その背景を探りながらていねいにその意味をさぐらなければなりません。でも一方において、言葉でいろいろ異なった表現がなされようとも、その言葉が指し示しているものは、ひとつのもの、ひとつのことがらであるという場合もあります。
先ほどお読みしました聖書の箇所を読む場合にも、そのことを考えなければなりません。マルコによる福音書8章35節に、「わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである」とあります。「わたしのために命を失うこと」と、「福音のためにいのちを失うこと」とは、表現の仕方は異なりますが、同じひとつのことを表していると思われます。
マタイによる福音書、ルカによる福音書には、「わたしのために命を失う者は、自分の命を救う」という言葉はありますが、「福音のために命を失う者は‥‥」というようには書かれていません。そもそもイエスがどう語ったのかはわかりません。「福音のため」という言葉は、もともとなかったのかもしれません。確かなことは、3つの福音書に共通点があるということです。イエスは少なくとも、「わたしのために命を失う者は、自分の命を救うことになるのだ」と語っています。
それでは、「イエスのために自分の命を失う」とはどういうことなのでしょうか。それは、「自分を捨て、自分の十字架を背負って、イエスに従う」ということです。
この部分の34節は命令文で、35節は平叙文で書かれています。
ここで私たちに求められていることは、34節にあるように、「イエスのために命を捨てる」ことであり、「自分の十字架を背負ってイエスに従う」ことです。
そしてイエスは、そうする者こそが、35節にあるように、自分の命を救うことになるのだと語っています。
それでは、「命を救う」ということはどういうことなのでしょうか。「救う」という言葉は、日本語では、第1に、「地震や台風などの災害にあった人たちの命を救い出す、救出する」という意味でも使われます。困難な状態から救い出すという意味です。また第2に「この世を救う」あるいは「世の中を救う」というように、この世をよくするという意味で使われます。そして第3に、「この世から救われて、極楽浄土へ行く」とか、「来世(らいせ)において救われる」というように、この世から脱出して、別の理想的な世界に行くという意味で使われることもあります。
それではキリスト教では、あるいは聖書では、救いとは、どういう意味なのでしょうか。
天国へ行くことが救いであるとするなら、人間は、この世界から救い出されて、天国へ行くことになります。でもヨハネによる福音書3章17節には、「神がみ子を世に遣わされたのは、世を裁くためではなく、み子によって世が救われるためである」とあります。ここには「この世から救われて天国に行く」のではなく、「この世そのものが救われる」と書かれています。
洗礼を受けて、信仰者になることを、救いであると考える人もいます。
主の祈りにおいては、「われらを試みみあわせず、悪より救い出したまえ」と祈りますが、「悪よりの救い」も救いです。
イエスは多くの人たちのやまいを癒やしましたが、身体のあるいは心のいやしも、救いです。
救われるということは、ある状態から、別のある状態になる‥‥とか、ある環境から、別のある環境に移るということではなく、私たちが、神さまの圧倒的な力にふれ、神さまの死者をもよみがえらせる命の力によって生かされるということです。
人間が、神さまに出会い、教会に来るようになり、洗礼を受けることも、神さまの救いです 生涯を終えて、天国へ行くことも、神さまの救いです。でもそれだけが救いなのではありません。
被災地の瓦礫の山から救い出されることも、困難な状態、絶望状態から逃れることができるのも、救いです。神さまの救いとは、神さまの圧倒的な力によって私たちが救い出されることです。
神さまは、この世のすべての人たちが救われることを望んでおられます。神さまは、すべての人たちが教会に来ることだけを望んでいるのであって、教会に来ない人がどうなっても関係がない‥‥と考えておられるのではありません。神さまは、自然の災害にもかかわらず、瓦礫の中から生き延び、一日も早く、必要なパンを得て、希望を持って歩むようになることを望んでいます。また私たちが助け合い、ともに歩むことを望んでいます。
神さまは、私たちを生かそうとしておられます。私たちを生かすために、すべての人たちに太陽を昇らせ、雨を降らせてくださいます。自然災害そのものは、誰の責任でもありません。神さまのせいで起こるのでも、人間のせいで起こるのでもありません。自然は人間の力を越えています。それを私たちはどうすることもできません。ただし自然に手を加えて、堤防をつくったり、自然を破壊したり、人間の知恵を結集して原子力発電所をつくるのは、私たち人間の責任です。また災害後に助け合うのかも、私たちの責任です。私たちはその責任を果たすことができているのだろうかと、大いに議論すべきだと思います。私たちがその責任を果たせていないのなら、大いに反省すべきです。でもそういう私たちに、神さまは必要なすべてのものを与えてくださいます。その神さまの恵みの中に生きることが大切なことです。神さまが与えてくれるものを生かし、神さまの力に支えられて、私たちが私たちに任せられている課題を果たすことが大切です。
神さまはすべての人たちに命を与えてくださり、生きるに必要なものを与えてくださる、そして神さまの力に生きるようにすべての人たちを招いてくださる。それなのに、イエスは、なぜ、「自分をすて、自分の十字架を背負わなければ、自分の命を救うことにならない」と語ったのでしょうか。
私たちはどうして自分を捨てなければならないのでしょうか。それは私たちが、元気であればあるほど、力があればあるほど、自分の手で何かをしなければならないと考えてしまうからです。自分の知恵や、力を頼みに、何かをしようとすると、周囲にいる人たちの手を借りたり、意見を聞くことがなくなります。そしてひとりよがりな歩みをするようになります。神さまの考えを聞かなくなり、神さまの力に頼ろうとしなくなります。それでも、誰かの役に立てるのであればまだいいのですが、自分の知恵や、自分の力を頼みに行動するようになると、私たちは弱い存在ですので、どうしても自分の都合を優先させて行動することになります。ひとりよがりな行動が、自分の思いどおりの、自分にとって有利な行動へと変化します。
一人がそのような生き方を始めると、その周囲にいる人たちも、人に頼るのはやめようということになり、ひとりよがりの生き方が、周囲の人たちの間にさらに広がっていきます。
そうすると、今度は、神さまに助けを求める場合も、自分の利益だけを追い求めるようになります。「神さま、私を守ってください」という祈りが、「神さま、私だけを守ってください」という祈りに変わり、場合によっては、「あの人たちではなく、私だけを守ってください」と祈るようになります。そこまでいかなくても、「私を守ってください」という祈りが、「私だけを守ってください」という祈りに限りなく近づいてしまうことがあるのではないでしょうか。
それでは自分の十字架を背負うということはどういうことなのでしょうか。主イエスが十字架に至る苦難の道を歩んだように、私たちも苦難の道を歩むということです。その苦難とは、私たちがこの世で味わうことになるさまざまな苦しみや悲しみのことです。この世で私たちにふりかかってくる苦しみや悲しみ‥‥と表現することもできます。
もしイエスがこの世とは深い入りせず、むしろこの世の争いごとから身を遠ざけ、安全な場所で心静かに生活していたら、苦難の道を歩むことも、十字架に至ることもなかったと思われます。しかしイエスは、この世を逃れ、別の世界に生きようとしたのではなく、神の力に生かされ、この世の苦しみ嘆く多くの困難な人たちとともに生きようとされました。
十字架を背負うとは、この世から逃げないということです。あるいは、人を見捨てないということです。自分だけ安全地帯で生活するのではなく、困難なこの世のただ中に立って、その場所を踏みこたえ、そこで神の力に生き、そこでさまざまな人たちとともに、決してその人たちを見捨てずに生きるということです。
イエスはこの世から逃れようとはしませんでした。人々を見捨てませんでした。人々と関わり続けようとされました。
十字架を掲げる教会が、自分たちのことだけを考える、あるいは自分たちの教会が栄えることだけを考えるとしたら、これはおかしなことです。十字架を背負うということは、この世の困難な状況の中に身を置いて、この世に生きる人たちを見捨てず、さまざまな課題を共有し、ともに神の力に生きることです。ひとりで生きないことです。楽な生き方をしないことです。
危険だから、危険から避けることができれば楽に生きられる、人と関わらないで生きれば自分ひとりどうにか生きていけるということではなく、さまざまな危険があっても、めんどうなことがあっても、人との関係において逃げ出さないこと、相手を見捨てないことが大切なことです。それこそ、自分を捨て、十字架を背負って歩むということです。そのときに、私たちは神の力によって生かされることになるでしょう。重荷を負いながら、逃げることなく、見捨てることなく、ともに神に生かされる者となって歩みましょう。
主なる神さま、
主イエスは、十字架に至る苦難の道から逃げ出しませんでした。
出会ったさまざまな人たちを見捨てませんでした。
自分のために生きるのではなく、最後まで、この世とともに、
周囲にいた多くの人たちとともに歩もうとされました。
その主イエスに従うことができますように。
あなたの力に生かされ、
ともに支え合って歩むことができますように。
あなたの「いのち」の力、あなたの救いの力にふれることができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。