2011.3.6

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「分配と幸福」

廣石 望

イザヤ書2,6-9; マルコによる福音書6,30-44

I

「国民総幸福量GNH(Gross National Happiness)」について耳にすることがあります。もともとヒマラヤ地域の小国ブータンの国王に発するアイデアだそうです。国民総生産 (Gross National Product、GNP) で示されるような、金銭的・物質的豊かさに代えて、精神的な豊かさ・ハッピネスをこそ重視すべきであるという意味です。「幸福感」は私たちの時代のキーワードのひとつです。

戦後に奇跡的な復興を遂げた日本は、米国に次ぐ世界第二の「経済大国」になりました。もっともこのポジションは、発展著しい中国に明け渡すことになったそうですが、私たちはあいかわらず物質文明の真っ只中にいます。それでも社会には不安が広がっています。私たちの老後はどうなるのだろう、ちゃんと就職できるのだろうか、今の仕事を続けてゆけるのだろうかという不安があります。年間3万人以上の自殺者が10年以上続いており、そこには子どもたちも含まれます。児童虐待に関するニュースも後を絶ちません。

いったい、地球環境を壊しながら成長を続けたところで、私たちは本当に幸せになれるのか・・・。ある人は「他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあいは人間が安心して暮らす中で欠かせない」、「私たちは生産に基づく幸福という巨大な幻想から自由になるべきだ」と述べています。そうした認識が、「国民総幸福量」という考え方の背後にあるのでしょう。

先日、テレビの報道番組で、会社をリストラされた30代の独身男性が、虎の子の資産を堅実な投資によって、わずかなりとも増やそうと努力しているようすが紹介されていました。この方が求めているのはつましい幸せです。しかし所有の拡大が、幸福そのものと同一視されてしまわないかと心配になります。

今日の聖書テキストには、イエスがパンと魚を配ったとき「すべての人が食べて満足した」(42節)とあります。――この「満腹する」という表現を「幸福である」という意味に捉えて、私たちの幸福とは何かについて考えてみましょう。

II

このテキストは「パンの奇跡」と呼ばれる奇跡物語伝承です。マルコ福音書にある物語ですが、同じ福音書に、よく似た話がもう一度収録されています(マルコ8,1以下)。明らかに福音書記者の手元には二つの伝承が伝わっていたのです。マルコは二つの別々のできごとに関する伝承と理解したのでしょう。マルコ福音書を用いて自分の福音書を著したマタイは、パンの奇跡について二度報告していますが(マタイ14,13以下、15,32以下)、同様にマルコを用いたルカは、同じ話だとおもったのか、ひとまとめにして一回だけ報告します(ルカ9,10以下)。さらにヨハネ福音書にも同じ話が伝わっています(ヨハネ6,1以下)。イエスが野原で大群衆にパンを与えたという伝承は、広い範囲に伝わった有名な話だったのでしょう。――私たちのテキストが伝える物語の特徴を、いくつかピックアップします。

まず「群集」について、私たちのテキストでは、5000人が「飼い主のいない羊のようなありさま」なのをイエスが「深く憐れんだ」とあります(34節)。マルコ福音書のもう一つのパンの奇跡には4000人が参加するのですが、そこでイエスは「群衆がかわいそうだ。もう三日もわたしと一緒にいるのに、食べ物がない。空腹のまま家に帰らせると、途中で疲れきってしまうだろう」と発言します(マルコ8,2-3)。

こんなにも大勢の群衆が人里離れたところに集結しているのは、なぜなのでしょう。もちろんイエスが人気者だったからかもしれませんが、「三日もいっしょにいる」というのは尋常ではありません。マルコ福音書はユダヤ戦争(AD66-70年)の末期前後に成立したと考えられていますので、最初の読者たちは、戦争で故郷を負われて流民化した人々のことを思い浮かべたのではないかと想像します。つまり難民キャンプ状態にある群集です。

いずれにせよ伝承の出発点には、イエスと彼の仲間たちが食べ物を恵んでもらい、自らそれを分け合って食べたことがあると思います。つまりイエスという場所では、個人の所有を超えた食べ物の共有というできごとが生じ、それが奇跡と受けとめられたのではないでしょうか。「十二」の籠が食べかすで一杯になったとあるのは、イスラエルの伝説的な十二部族を示唆するシンボリカルな数字です。失われた民族の統合性を回復するという夢がイエスたちの活動の中で生きていた、あるいは人々が彼にその夢を託したのかもしれません。

次に「弟子たち」に注目すると、イエスが彼らの積極的な関与を求めていることが目立ちます。「あなた方が彼らに食べ物を与えなさい」(37節)とイエスは要求します。食糧の有無を確認し、群衆をグループ分けし、実際に分配するのも弟子たちです。残り物を収集したのも彼らでしょう。この「弟子たち」の積極的な関与というモチーフは、この奇跡物語伝承が教会共同体の中で現在あるかたちをしだいに整えていった過程で、後に付加された要素であろうと思います。つまり原初の伝承では、たんにイエスがパンを与えていたのが、イエス亡き後の教会共同体でこの物語が伝えられてゆく中で、教会が実践していた食べ物の再分配と重ね合わせられて、その奉仕者の存在が「弟子たち」の姿となって保存されたのではないでしょうか。

私たちの物語で「群集」と「弟子たち」は食糧の提供者と再分配者という役割分担ですが、先行する十二人の派遣の物語(6,1以下)では、弟子たちは「汚れた霊に対する権能」をイエスから授けられて村々に派遣されます。その彼らが――中間に、自らの富と権力に固執する王ヘロデ・アンティパスの対照的なエピソードを挟んで――イエスのもとに帰ってきてから生じたのがパンの奇跡です。つまり家々が弟子たちを養い、弟子たちが群集の病気を治す一方で、群集は食べ物を提供し、弟子たちが再分配します。どちらの場合もイエスを通して、命の分配というできごとが生じています。

その当の「イエス」は、パンの奇跡で何をしているでしょうか。彼がするのは「教える」(34節)ことと、「五つのパンと二匹の魚を取り、天を仰いで賛美の祈りを唱え、パンを裂いて、弟子たちに渡した」(41節)こと、それだけです。記されてはいませんが、彼もいっしょに食べたのだろうと思います。少なくとも彼の奇跡が、彼個人の所有を最大化するために生じていないことは明らかです。

III

私たちにとって幸福とは何でしょうか。――先月末まで私は、例年のように、南インドに学生たちを引率してスタディー・ツアーに行きました。昨年、受入先NGOのディレクターであるトマス・マシュー氏から言われて、心にぐさりときた言葉があります。「先生、子どものためにお金を貯める必要はありませんよ。むしろ、いま生きている貧しい人々のために使うのがいいです。次の世代は、次の世代が養うでしょう」という言葉です。

その言葉を今年の学生たちに伝えましたら、「どういう意味か」と問い返してきた人がいました。彼女は奨学金をもらって大学に通っているのですが、将来ちゃんと就職できるかどうかが不安で、親御さんに向かって「どうして私に奨学金を受けさせてまで学校に通わせたのか」と責めたことが気になっていたのです。現在、日本学生支援機構の奨学金を受けている大学生は平均するとおよそ三人に一人、他方で就職を望んでじっさいに内定をもらえるのはおよそ十人に七人です。すると奨学金を受給されたけれども内定がもらえず、返済のめどが立たないまま卒業してゆく危険性がかなりあるのです。

トマスさんの返答は、およそ以下のようでした。〈子どもに財産だけ残しても、それが彼らを本当に守るかどうかは不確かだ。財産が子どもの人生を縛ることもありうる。次世代には教育と世界への広い視野を与え、自らの自由意志で人生を切り開くよう促すことが大切だ。また私が子どものために富を貯えても、誰も私を尊敬してはくれない。しかし今生きている貧しい人々のために使うならば、それは祝福となって私と子どもたちの上に返ってくるだろう〉――じっさいこのように生きることができれば、どんなにか素晴らしかろうと思います。

そして、その祝福は現実に存在するのです。私たちは今年も、このNGOが行っている地域公立病院への無料の食事配給を見学させてもらいました。いつも学生たちは、給食設備すらない病院に入院している貧困層の人々と付き添いのご家族が、突然やってくる外国人である自分たちのことをいったいどう思っているのか、たいへん気にします。今回、次のようなエピソードがありました。

入院患者の一人が、私たちに同行したトマスさんに「なぜこの外国人たちはここに来たのか」と尋ねたのです。彼の返答は、およそこうでした。「彼女たちはスタディ・ツアーでインドに来た。その参加費用の(一部の)おかげで、この病院に過去11年間、毎日200人分の暖かい食事が一日に一回、欠かすことなく届けられてきた。彼女たちはいま大学で勉強中の身だ。この地で苦しんでいる人々にじっさいに触れてもらい、その心が作り変えられることで、やがては自分たちの力で、必要なものに事欠く人々を助けることができるようになろうとしている。そのためにここにいるのです」。どうやら患者さんはトマスさんのことを、最初は学生たちを運んできたタクシー・ドライバーと勘違いしたようですが、彼が「私がその責任者です」と自己紹介したとき、私たちに繰り返し「God bless you!」と仰いました。祝福は返ってきたのです。

IV

イエスは目を天に上げて神を祝し、パンを裂いて分配しました。この所作は、与える神、命を支える創造神を言祝ぐ所作です。この神に対応する人間たちのあいだで生じる「分かち合い」の機能的中心にイエスがいます。「私が天から降ってきた活ける命のパンである」というヨハネ福音書のイエスの言葉は(ヨハネ6章)、この事態を思想的に純化したのであると思われてなりません。

資本主義は、とりわけ私有財産制を「自由」の根幹として神聖視してきました。その主たる対象は「土地」です。しかし現代にあっては、土地と並んで「食糧」も投機の対象であり、さらには「水(飲料水)」までが所有と売買の対象になりつつあります。これで、いったどうやってGNH(国民総幸福量)が重視する「他者とのつながり、自由な時間、自然とのふれあい」が達成されるのでしょうか? 私たちにとって幸福、神の祝福とは何なのでしょうか?

そのことを知るための手がかりは、〈幸福は共有すれば増えてゆく〉ことを身をもって示したイエス、与える神に対応する分かち合う人間の記念碑的な存在であるイエスが、私たちに主キリストとして与えられていることにあると思います。




礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる