2011.1.30

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「神に希望をかける」

廣石 望

エゼキエル書 34,11-16; コリントの信徒への手紙二 1,3-11

I

 最近の若者言葉に、「心が折れそうになった」という表現があります。例えば「学期末テストの朝に寝坊して駅まで全力で走ったのに、定期券を忘れてしまい、心が折れそうになりました」。すごくがっかりしたという気持ちを、多少ともユーモラスに表現するときに使うようです。他方で私たちの人生には、テストに遅刻するよりもはるかに深刻なピンチがあります。病気や行き詰まり、あるいは仕事上の失敗といった個人的なものから、政治弾圧や戦争、社会不安や文字通りの社会崩壊に伴う困難に至るまで、人生にはさまざまな「苦しみ」がつきものです。

 ふだん私たちは「苦しみ」を、そんなことを体験せずにすむなら、それに越したことはないものと考えます。だから苦しみがあるとき、そこから逃れようと必死になります。他方で、苦しみは神罰だ――「あなたの日頃の行いが悪いから」「ご先祖の祟り」――という説明もありますね。その場合は反省したり、お祓いをしてもらったりするのでしょうか。あるいは〈私が成長するためのチャンス〉と積極的にとらえて、逆に苦しみを支配しようとすることもあるでしょう。さらに「苦しみ」は悪しきこの世に生きる者の運命であり、来るべき世が来て初めて、義人は幸福に生きることができる、という宗教思想もあります。

 それらと比べて、パウロの理解はもっと独特です。彼の言葉を手がかりに、キリスト教の立場から「苦しみ」をどう理解できるか、また苦しみの中にあっても「神に希望をかける」とはどういうことかを考えてみましょう。

 

II

 最初に確認しておきたいのは、パウロが苦難について述べるとき、その多くが「使徒」として生きるという彼に独特な使命と結びついていることです。もちろんパウロも個人的な苦しみを知っています。おそらく持病について、「治して下さい」と必死で神に祈ったことがある、と告白していますから(コリント二 12,7以下)。しかし彼にとって重要なのは、使徒としての苦しみでした。例えば、

 ユダヤ人から四十に一つ足りない鞭を受けたことが五度。鞭で打たれたことが三度、石を投げつけられたことが一度、難船したことが三度。一昼夜海上に漂ったこともありました。しばしば旅をし、川の難、盗賊の難、同胞からの難、異邦人からの難、町での難、荒れ野での難、海上の難、偽の兄弟たちからの難に遭い、苦労し、骨折って、しばしば眠らずに過ごし、飢え渇き、しばしば食べずにおり、寒さに凍え、裸でいたこともありました。(コリント二 11,24-27

 これらはすべて、キリストを宣教することに結びついた苦難です。パウロにとって苦しみはキリストを宣教するための手段、しかもこの目的と内的につながった存在のモードでした。

 

III

 「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただくこの慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます」(4節)――私たちにとって苦しみは、しばしば自分ひとりの心に納めておくべきもの、恥ずかしくてとても他人には言えないもの、できれば世間に晒したくない身内の恥です。しかしパウロは違います。彼にとって苦しみは、自分たち宣教者とコリント教会の信徒たち、さらに「あらゆる苦難の中にある人々」を結び合わせる媒体です。その根拠は、神が「あらゆる苦難にさいして私たちを慰める」ことにあります。

 この箇所の新共同訳で「慰め」と訳されたギリシア語「パラクレーシス」は、その原義が「呼びかけ」「語りかけ」です。これが文脈に応じて「慰め」「励まし」「勧告」「願い」などに訳し分けられます。それでもよいのですが、パウロの言葉遣いの特徴は、神がキリストを通して人間に対して行ったことと、それに対する人間の応答である信仰と宣教の両方を一まとめにして、「語りかけ」と呼ぶ点にあります。宣教を含むキリストのできごとの総体が「かたりかけ」なのです。

 ですから、こう訳すことも可能です。「神は、私たちのあらゆる苦しみにさいして私たちに語りかけており、〔その結果〕私たちはあらゆる苦しみの中にある人々に向かって語りかけることができる、私たち自身が神から語りかけられたあの語りかけを通して」。――「苦しみ」は、まずは宣教活動にともなって与えられますが、そもそも宣教を可能にした神の「語りかけ」は、彼らの苦しみを通して作用を発揮し、同じように苦しみの中にある他の人々のところに運ばれてゆくわけです。

 そのときパウロは、「キリストの苦しみが満ちあふれてわたしたちにも及んでいる」(5節前半)と述べて、自分の苦しみを「キリストの苦しみ」、つまり十字架の死にいたるイエスの生の全体と二重写しに理解しています。他方で「私たちの受ける慰めもキリストによって満ちあふれている」(同節後半)とあるとき、「私たちの受ける慰め」と訳された部分のギリシア語原文は「私たちの語りかけ」です(「受ける」は原文にありません)。ですからこの文は、パウロたちの宣教活動を指している可能性があると思います。――キリストの苦しみが溢れて宣教者の苦しみとなる一方で、そのようにしてなされる宣教者の語りかけもまた、キリストを通して、他のあらゆる苦難の中にある人々に向かって溢れる・・・。

 なぜ、キリスト教宣教者に固有の苦しみが、その他一般の苦しみにとって有意義なのでしょうか。それは、神がキリストを通して人に語りかけるとき、人の苦しみという要素が初めからその語りかけに含まれているからでしかありえません。つまり十字架のキリストです。十字架刑という虐殺の死、苦難の死を死んだイエスこそが、神の救いの啓示だからです。

 

IV

 それゆえキリストの苦しみに連なるパウロたち宣教者の苦しみは、コリント教会の信徒たちに対する「語りかけと救い」のためです(6節前半)。同時に、パウロたちが受けとる「語りかけ」は「あなた方の語りかけ」のためであり、なおかつその語りかけは信徒たちがパウロと「苦しみと同じ苦しみを耐える」中で作用を発揮すると言われます(6節後半)。――「あなた方の語りかけ」(新共同訳「あなた方の慰め」)とは何でしょうか。ここでは信徒たちが「語りかけられる」という意味と、彼ら自身が「語りかける」つまり証言ないし宣教活動を行うという意味がシームレスにつながっているように感じられます。苦しみを共有することで、語りかけの連鎖が生み出されるのではないかと思います。

 パウロにとってもコリント教会にとっても、苦しみは「神の語りかけ」が作用を発揮する場所です。それが実現するとき、「語りかけ」は宣教活動と信徒相互の支えあいを同時に含んでいます。パウロと教会は、「この苦しみ」を通して働く「神の語りかけ」によって相互に結ばれています。だから彼はこう言えるのでしょう、「あなた方について私たちが抱いている希望は揺るぎません。なぜなら、あなた方が苦しみを共にしてくれているように、慰め〔/語りかけ〕も共にしてくれていると、私たちは知っているからです」(7節)。

 こうしてコリント教会の信徒たちにとっても「苦しみ」は、神の語りかけが作用を発揮する場であり、パウロから見てそれは希望のしるしなのです。

 

V

 しかしこうした希望も、そのときどきの具体的な経験を通して、実感をもって納得できなければ、他の人々と共有することも長期的に維持することも、やはり難しいのではないでしょうか。果たせるかなパウロは、「アジア州で起こった私たちの苦難」という具体的な経験に言及します(8節以下)。

 具体的に何があったのか、事実経緯について彼はいっさい語りません。その代わりに使徒言行録が、アジア州の中心都市エフェソスの――今では観光名所になった――巨大な野外円形劇場で生じた、パウロとその一行をめぐる騒動について報告しています(使徒言行録19,23-41)。

 パウロ自身は、そうした体験を自分の内面から報告しています。すなわちあまりに圧迫されて生きることにも絶望して死を覚悟し、自分たち自身でなく、死者たちを起こす神を頼ったと。これは、もう自分たちは死ぬのだから、死後に私たちを復活させる神だけが頼りだ、という意味です。それでもパウロたちは、この危機を脱しました。それを彼は、「神はこれほど大きな死の危険から私たちを救ってくださった」と表現します。

 死を覚悟するような瞬間は、できることなら経験したくないものだと思います。それでも私たちは、「神が私を救ってくださった」と表現する他ないような経験を自分がすること、またそうした経験について聞くことがあります。多くの場合、そうした「神の助け」は人を通してもたらされます。もう誰も助けてはくれない、自分は見棄てられたと思っていたときに、思いがけない仕方で助けがもたらされるという経験です。そのとき私たちは、私の知らないところで私のために祈り、行動してくれる人たちがいたことに気づきます。

 私の苦しみを共有する人々を通して神が私に語りかけ、働きかけて、救いをもたらすとき、私もまた感謝とともに祈るでしょう。この祈りが私たちを結び合わせ、同じように苦しみの中にある他の人々に向けて、私たちの眼差しを開きます。もちろん「死者たちを起こす神」に信頼しつつ、悲しいことに失われていった命もあることでしょう。しかしその場合ですら、死者を起こす神に希望をかけることは共通しています。

 神に希望をかけるとは、キリストを通して神が私たちに語りかけるという現実に信頼し、その現実をさまざまな経験、とりわけ「心が折れそうな」苦しみの経験を通して実感し、他の人々とつながって、祈りつつ共に生きていくことにあるのだと思います。



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