2011.1.2

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「心の底から新たにされて」

村椿嘉信

イザヤ書65,17-25; エフェソの信徒への手紙4,17-32

テキスト(旧約):イザヤ書65章17-25節

見よ、わたしは新しい天と新しい地を創造する。初めからのことを思い起こす者はない。それはだれの心にも上ることはない。代々とこしえに喜び楽しみ、喜び躍れ。わたしは創造する。見よ、わたしはエルサレムを喜び躍るものとしてその民を喜び楽しむものとして、創造する。わたしはエルサレムを喜びとし、わたしの民を楽しみとする。泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない。 そこには、もはや若死にする者、も年老いて長寿を満たさない者もなくなる。百歳で死ぬ者は若者と、百歳に達しない者は呪われた者とされる。
彼らは家を建てて住み、ぶどうを植えてその実を食べる。彼らが建てたものに他国人が住むことはなく、も彼らが植えたものを、他国人が食べることもない。
わたしの民の一生は木の一生のようになり、わたしに選ばれた者らは、彼らの手の業にまさって長らえる。 彼らは無駄に労することなく、生まれた子を死の恐怖に渡すこともない。彼らは、その子孫も共に、主に祝福された者の一族となる。 彼らが呼びかけるより先に、わたしは答え、まだ語りかけている間に、聞き届ける。 狼と小羊は共に草をはみ、獅子は牛のようにわらを食べ、蛇は塵を食べ物とし、わたしの聖なる山のどこにおいても、害することも滅ぼすこともない、と主は言われる。

テキスト(新約):エフェソの信徒への手紙4章17-32節

そこで、わたしは主によって強く勧めます。もはや、異邦人と同じように歩んではなりません。彼らは愚かな考えに従って歩み、知性は暗くなり、彼らの中にある無知とその心のかたくなさのために、神の命から遠く離れています。そして、無感覚になって放縦な生活をし、あらゆるふしだらな行いにふけってとどまるところを知りません。
しかし、あなたがたは、キリストをこのように学んだのではありません。キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです。
だから、以前のような生き方をして情欲に迷わされ、滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着け、真理に基づいた正しく清い生活を送るようにしなければなりません。
だから、偽りを捨て、それぞれ隣人に対して真実を語りなさい。わたしたちは、互いに体の一部なのです。怒ることがあっても、罪を犯してはなりません。日が暮れるまで怒ったままでいてはいけません。悪魔にすきを与えてはなりません。盗みを働いていた者は、今からは盗んではいけません。むしろ、労苦して自分の手で正当な収入を得、困っている人々に分け与えるようにしなさい。悪い言葉を一切口にしてはなりません。ただ、聞く人に恵みが与えられるように、その人を造り上げるのに役立つ言葉を、必要に応じて語りなさい。神の聖霊を悲しませてはいけません。あなたがたは、聖霊により、贖いの日に対して保証されているのです。無慈悲、憤り、怒り、わめき、そしりなどすべてを、一切の悪意と一緒に捨てなさい。互いに親切にし、憐れみの心で接し、神がキリストによってあなたがたを赦してくださったように、赦し合いなさい。

 心の奥底から新しくされて:

 新しい年がやってきました。

 新しい気持で、新たな決意で、この1年を歩もうとされている方も多いのではないかと思います。

 しかし何が新しいことなのかということを考えてみなければなりません。確かに暦は変わりました。しかし世の中の混沌とした状況も、私たち自身の歩みも、ただ年が明けるだけで新ししくなるものではありません。私たちは、聖書でいう新しさとはどういうことなのかを学ばなければなりません。イザヤ書65章17節には、神が新しい天と地を創造するとありますが、神が地を新しくする‥‥というわざに、私たちがどうかかわっていけるのかを学び、神の問いかけに応じるものとならなければなりません。

 さてエフェソの信徒への手紙の4章23節に、「心の底から新たにされる」という言葉があります。「心の深みまで新たにされる」「心の奥底から新たにされる」‥‥というこの言葉は、ただ新しい気分になるということではなく、また単に決意だけを新たにするということでもなく、私たちの日々の歩みが、いや私たちの存在そのものが、心の奥底からすべて新たにされるということです。

 宗教は気休めだと考える人たちがいます。特定の宗教を信仰しているわけではないのに、新年には神社や寺院に初詣に行く人たちがいます。社会の混沌とした状況は何も変わらなくても、自分がかかえている問題に出口が見つからなくても、心のリフレッシュさえできればいい、もやもやとした気分を一掃して新たな気持で出発できればいい‥‥と考えて初詣に行く人も多いのではないでしょうか。

 でも聖書は、現実には何も変わらないけれども、「せめて心ぐらいは、せめて気分ぐらいは、新たになりましょう」と呼びかけているのではありません。心の底から、心の奥底から、私たちの具体的な日々の歩み、私たちの人生、私たちの存在がまるごと新たにされるというのです。しかも根底から新たにされるのです。しかもそれは、個人のレベルを超えて、天も地も新たにされるのです。「だからあなたも新しくなりなさい!」と聖書は呼びかけているのです。


 <心の底から新たにされる>とはどういうことか:

 「心の底から新たにされる」とはどういうことなのでしょうか。さきほどお読みしました聖書の箇所をていねいに読んでいく必要がありますが、「木を見て、森を見ない」という言葉のように、言葉の一つひとつにとらわれてしまうと、全体としてこの箇所が述べていることを見失ってしまう危険があります。私は、今日は、一つひとつの言葉の説明ではなく、この箇所全体が何を語ろうとしているのかを考えてみたいと思います。

 この手紙の著者は、「どうすれば、私たちは心の底から新たにされる」と述べているのでしょうか。その前の21節に、こういう言葉があります。

 「キリストについて聞き、キリストに結ばれて教えられ、真理がイエスの内にあるとおりに学んだはずです」。

 ここにまず、「キリストについて聞いた、キリストについて学んだ」と書かれています。だけど、ただ、聞いて学ぶというのではなく、さらに「キリストに結ばれて、教えられた」とあります。「聞く、学ぶということ」と、「結ばれて、教えられる」ということとは、まったく次元の異なることです。「キリストについて聞いたり、学んだりする」ことは、私たちが努力すれば可能なことです。でも、「結びつく」ためには、キリストの側からの働きかけが必要になります。「結びついて、教えられる。そしてイエスのうちにある真理が、イエスのうちにあるとおりに私たちに伝えられる」ということは、イエスとの生きた関係の中で、イエスみずからが働きかけてくれることによって可能になることです。

 このことからわかることは、イエスに結びつけられることによって、私たちは古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされ、新しい人を着ることができるということです。これが大切なことです。

 それでは、この手紙の著者は、「私たちが心の底から新にされるとはどういうことだ」と述べているのでしょうか。24節には、私たちは心の底から新たにされて、真理に基づいた正しく清い生活を送るようになる‥‥と書かれていますが、その内容は25節以下で詳しく述べられます。

 大切な言葉だけ、指摘してみます。

 25節に、「偽りを捨て、隣人に対して真実を語りなさい」とあります。

 26節に、「怒ることがあっても、罪を犯してはいけません。日が暮れるまで怒った(いかった)ままでいてはいけません」とあります。

 27節に、「悪魔にすきを与えてはいけません」とあり、具体的なこととして、28節で、「盗んではいけません」とあります。

 29節に、「悪い言葉を口にせず、むしろ相手に役立つ言葉を語りなさい」とあります。

 30節に、「聖霊を悲しませてはいけません」とありますが、聖霊を悲しませる行為というのは、前後関係から、悪い言葉を語ること、それによって、相手の心を傷つけることを意味します。それはさらに31節にあるように、無慈悲にふるまうこと、憤ること、怒ること、わめくこと、そしることでもあります。それを捨てるようにと書かれています。

 32節に、互いに親切にし、憐れみの心で接し、神が赦してくださるように私たちも赦し合いなさいとあります。これらはすべて人間と人間の関係の中で起こることです。

 この手紙の著者は、新しくされるということは、人間の関係の中で、お互いの関係が根本的に新らしくされることだと述べています。

 つまり、私たちは、キリストとともに歩むことによって、「心の底から新しくされ」ます。そしてその新しさは、隣人兄弟姉妹との新しい関係をもたらします。地上でひとりの人間として歩んだイエスとともに歩むことは、私たちを他者との新しい関係の中に招き入れるのです。

 他者とは関係のないところで、他者のいないところで、自分ひとりのこととして、天にいる神の前で修業を積み、神に敬虔な祈りを捧げる、そして神によって自分が変えられるというのは、‥‥ファリサイ派の人たちの道です。

 ファリサイ派の人たちは、神と人間との関係を重要視しますが、そこには「他者」との関係は入ってきません。ファリサイ派の人たちにとって、救いは「神」と「私」の個人的なレベルにとどまります。

 このような生き方に対し、イエスは、この地上で、神の前で生きることの重要さと並んで、人を愛し、受け入れ、ともに歩むことの重要さを教えてくれました。神を愛することと、隣人兄弟姉妹を愛することとは、別々のことではなく、表裏一体の関係にあるのだと教えてくれました。そして実際にこの地上でそのような生き方をされました。私たちは、このイエスに結ぶつくことによって、イエスのように他者とともに歩む道へと招かれています。


 人とのかかわりを求めて:

 このことは、私たちがいくら自分ひとりで、自分は新たにされたのだと思い込んでいても、それでは不十分だということを意味します。自分ひとりで、自分は立派な生き方をしている、立派な仕事をしている、と思っていても、それはイエスとは無関係に、自分の努力で自分の目標を達成し、自分ひとりで評価しているだけのことではないでしょうか。

 キリストに結びつき、キリストに新しくされるということは、私たちが、具体的な日々の生活の中で、家庭とか、地域とか、職場とか、学校とかで、さまざまな人たちと結びつき、その人たちと新しい関係に立って生きるものとなることを意味します。

 隣人に対して真実を語ること、これはむずかしいことかもしれません。私たちは、ついつい小さな嘘をついてしまうことがあります。これぐらいは許されるだろうと考えて、その場で、自分の考えとは違うことを語ってしまうこともあります。でも、小さな嘘が大きくなったりもします。また小さい嘘を重ねているうちに、自分が嘘をついているという自覚なしに、平気で嘘をつくようになってしまいます。そのうちに、自分でも何が真実か、何が嘘かわからなくなってしまうこともあります。

 26節の、怒ることがあっても、罪を犯してはならない‥‥という言葉は、とても意味の深い言葉ではないかと思います。「怒ってはならない」と言っているのではありません。人と人とがともに歩めば、ぶつかり合うことは避けることはできません。でもぶつかりあっても、心の底にあるものをみなはき出すなら、そこからお互に理解し合うこともできるようになるでしょう。また、学び合いことができ、成長し合うこともできるようになります。29節には、「その人を造り上げるのに役立つ言葉を必要に応じて語りなさい」とあります。いずれにせよ理解し合い、お互いに親切にし合い、相手のことを気づかい合いながら歩むときに、赦し合いながら歩むときに、私たちは、その輪の中にイエスがともに歩んでいることを知ることができます。イエスによって結ばれていることを感じながら、お互いに成長し、前進することができるようになります。


 沖縄教区でのこと:

 さて話は聖書から離れますが、私は、来週の日曜日、月曜日に沖縄県の名護で開催される沖縄教区の年頭修養会に参加する計画を立てています。役員会に申し出、礼拝説教は廣石副牧師が担当してくださることになりました。私が今、願っていることは、沖縄で得られた人たちとの関係を、今後も大切にしたいということです。

 その年頭修養会でこういうことがありました。1995年のことですから、今から15年以上も前のことですが、私が教区の宣教部委員長をしており、宣教部の企画で、石垣島で年頭修養会を行いました。その時に、兵庫教区から2人の参加者がありました。年頭修養会は成人式前後に毎年開かれており、当時は、15日が成人の日でしたから、15日、16日と石垣島で集会がもたれました。翌17日になり、修養会が終わってみな喜んでいたときに、阪神淡路地域で大震災が起きたというニュースを聞きました。まず、この二人の参加者をどう神戸に送り帰すべきなのかということが問題になりました。被災していることは確実なので、無事にたどりついても、そこで生活することができるのだろうかということも問題になりました。この二人は、一日も早く家族や教会のある場所へ戻りたいと願いましたがすぐに戻れる状況ではありませんでした。実際に神戸に戻っても、2、3日間は連絡がとれない状態が続きました。年頭修養会に参加した人たちを中心に、阪神で起きていることは他人事ではないという思いがひろがっていきました。

 ほかのルートからも情報が刻々ともたらされましたが、沖縄教区の諸教会の間で、また沖縄キリスト教学院大学などで、いろいろな動きが起こりました。何人かの牧師は、震災から5、6日後に現地に入り、情報を伝えてくれました。私は、少し遅れましたが、月末には現地に行きました。私の場合は、さらに3月に、学生、それから家族を連れて(まだ小さかった子どももつれて)神戸に行きました。

 あの時、沖縄からかなりの支援活動がなされたことは、兵庫の関係者は今でも覚えてくださっています。沖縄は、県民の人口も、また教会の数も、他の都道府県に比べたら小さいので、統計をとって比較したら、その時できたことはたいしたことはないと思います。しかし小さな沖縄にしては、決して十分とは言えないまでも、かなりのことができた思います。そしてそういうところで得られた人と人との関係は、その後もずっと残っています。

  その後も地震とか、津波とか、さまざまな災害がありましたが、沖縄教区は、必ずしも十分な対応ができたのではありません。つまりその度に人を派遣したり、大規模な支援活動をしたのではありません。でも、教団とか、日本キリスト教協議会が呼びかけなくても、独自に支援活動をしたり、また支援活動をしている人たちをサポートするかたちで活動をしたりしています。そして人と人との信頼できる関係が大切なのだということを学びました。

 新約聖書の中のパウロの手紙や、その他の手紙は、教会が成立した頃の人と人との生きた関係が背景にあります。それらの文書に示されているのは、さまざまな人たちとのつながりの中で発せられた言葉です。聖書の中には、教会会議で多数決によって議せられた議事録が載せられているのではありません。

 今日お読みしました聖書の箇所は、そういう人々の交流の中で、呼びかけています。

 「あなたがたは、キリストに結びついて心の奥底まで新しくされたはずなのに、実際にそれが人と人との関係の中で生かされていません。あなたがたはキリストによって心の底まで新しくされたはずです。あたなたがは、すでに新しい道を歩んでいるはずです。それを思い起こし、新しい生き方を、人と人との関係の中で実現しなさい。すでにあなたがたは新しくされているのだから‥‥」と。

 私たちは今、新年を迎えていますが、決定的に新しいことは、すでにイエスの誕生によって始まっています。新しい道は、私たちの前にすでに敷かれています。その道を見失うことなく、歩む者となりましょう。イエスがすでに新しい心を得させていてくれることを知り、その心を人と人との関係の中で生かすものとなりましょう。そのために、教会においても、家庭においても、職場においても、学校においても、真実を語り、怒ることがあっても、相手を傷つけることなく歩む者となりましょう。今年1年間、お互いに成長できるような言葉を投げかけ合い、相手の思いを知り、ともに愛し合いながら、赦し合いながら歩みましょう。


神さま、
あなたのみ子キリストに結ばれ、教えられるときに、
私たちは心の底から新しくされて歩むことができます。
あなたがすでに私たちを招き、捕らえてくださることを感謝します。
あなたのもとで新たにされる道を、この1年間歩み続けることができますように。
人と人との間で、新らしい生き方をしていくことができますように、
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン



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