I
キリスト教は、イエス・キリストにおいて私たちの神が現れ、今もともに歩んでくださると信じます。日々の経験を通してそのことを実感することなしに、キリスト教信仰は存続できません。では、そのイエス・キリストとは何者なのでしょうか。
古代の世界では、ある人が何者であるかは家系によって決まる、子どもの正体は親が何者であるかによって決まる、という考え方がありました。現代でも家柄や両親の社会的な認知が、その家庭に生まれた子どもの自己理解や周囲の受けとめ方に影響することはあると思います。
他方で子どもの人権に関して、私たちの国も批准している国連「子どもの権利条約」(第2条)は、出自によって子どもを差別してはならないと定めています。
しかし日本では、例えば嫡出子と婚外子の相続に差があるなど、じっさいには出自による差別が今でも法律によって容認されていると聞いています。
さらに、子どもが安心して育つ環境が整っていない場合、そのことが子どもの自己形成に深刻な影響を与えることがあることは一般に認められています。例えば幼少期に、頼りにすべき大人から「見棄てられる」という恐怖を経験した場合、青年期になったときに周囲の人と適切な人間関係を結ぶことが難しくなることがあることは、私にもじゅうぶん想像がつきます。
イエスのアイデンティティとは――とりわけ親と子の関係、またその出生の事情から見た場合――どのようなものなのでしょうか。
II
マタイ福音書の冒頭にはイエスの系図が置かれています(1,1-17)。「誰それ(父)は誰それ(息子)をもうけ」が反復され、カタカナの固有名詞ばかりが出るので、せっかく聖書を読み始めてもさっそく居眠りしてしまう、と笑い話に言われる箇所ですね。
その連なりが始まる前に、「アブラハムの子、ダビデの子、イエス・キリストの系図」(1,1)とあります。アブラハムはイスラエル民族の先祖で、彼を通してあらゆる民族に神の祝福が及ぶと約束された人です(創世記22,18)。他方で「ダビデ」とは、その子孫からメシアが生まれると信じられた人でした(例えば詩編17編、18編)。イエスがこの二人の末裔であるとは、彼こそがアブラハムとダビデに与えられた約束の成就であるという意味です。
その系図の末尾にはこうあります、「ヤコブはマリアの夫ヨセフをもうけた。このマリアからメシアと呼ばれるイエスがお生まれになった」(1,16)――これまでのパターンが、ここで崩れていることにお気づきでしょうか。それまでは「父が息子をもうけた」という言い方でした。しかしここでは、息子であるヨセフに「マリアの夫」という但し書きがついています。そして何よりも、「このマリアからメシアと呼ばれるイエスが生まれた」という表現で、父系の系図から突然に母のラインに転じているのです。
一般に信じられているようにイエスが処女降誕したのであれば、イエスは父ヨセフと血のつながりはありません。いったい全体どのような意味で、彼はそれでもアブラハムとダビデの末裔なのでしょうか。他方、「このマリアから生まれた」とは、もう少し詳しくいうと、どういうことなのでしょうか。その問いに答えるのが今日のテキストです。
III
考えてみると不思議なテキストです。「イエス・キリストの誕生の次第」(18節)を述べるはずの物語には、時間と場所の表示が欠けています。天使がヨセフの夢にあらわれたとき、彼と許嫁のマリアがどこで何をしていたのかは分かりません。まるで、ぽっかりと浮かび上がる夢のような場面という印象があります。
さらに奇妙なことに、マリアの妊娠とイエスの誕生という、肝心なはずの二つのできごとは物語られません。妊娠はマリアとヨセフがいっしょになる「前」のことだと言われる一方で、イエスが生まれる「まで」の話があるだけです(2章以下は、すでにイエスが生まれた「後」の話です)。
さらにこの物語は、ヨセフとマリアが婚約中、まだ結婚が完全に成立するより以前に彼女が妊娠したため、ヨセフはひそかに離縁することを考えたが、天使が夢の中に現れて「生まれる子は聖霊による」と告げたと言います。さらに物語り手は旧約預言(イザヤ7,14)を引いて、このできごと全体の意味を読者に説明しています。――つまりこの物語には、一方には若いカップルを突然襲ったきわめて現実的な困難という要素が、また他方には聖霊の働きや天使の介入、さらには預言の成就という神々しいオーラを伴う要素があり、両者が奇妙に並存しているのです。
IV
古代のユダヤ教が、こうした物語を逆手にとって、いまや自立の道を歩み始めたキリスト教に向かって痛烈な反駁を浴びせたことがあります。
紀元3世紀前半、キリスト教教父のオリゲネスは『ケルソス駁論』という書物を著しました。反駁の対象とされたケルソスという人は異教の哲学者です。ケルソスの著作そのものは失われましたが、オリゲネスによる引用の断片が残っています。ケルソスは、ユダヤ人から聞いた話として、つぎのような議論を持ち出したもようです。
これは要するに、「聖霊によるイエスの妊娠(ないしマリアの処女懐胎)というキリスト教の主張は、ふしだらな人妻の婚外妊娠という事実をカモフラージュするための虚偽にすぎない」という意味です。また「パンテラ」は異教徒の兵士ですので、イエスは非嫡出子であるのみならず、正当なユダヤ人ですらありません。ましてや「ダビデの子」などという高貴な生まれではありえない。さらに「パンテラpanthera」という名が「おとめ/パルテノスparthenos」のアナグラムであるならば、それはマリアの処女性をあざ笑うものでもあります。――つまり母マリアをけなすことで、その息子イエスを嘲弄し、それによってキリスト教を貶めようという論法です。
イエスの出自をめぐるこのようなキリスト教批判は、ユダヤ教のバビロニア・タルムードにも典拠箇所がありますので(「シャバット」104b)、ケルソスがこの議論をユダヤ人から聞いたというのは、どうやら本当のようです。マタイ福音書の「このマリアから」という表現が、こうした批判にひとつの手がかりを与えたかもしれません。
V
さて、この古い批判に私たちはどう対応すべきでしょうか。今さら、しゃかりきになってイエスの処女降誕の事実性を擁護することは――そもそもユダヤ教による批判そのものが、そのことを見越しています――もはや私たちのとるべき道ではなさそうです。
私の心に浮かんでくるのは、むしろ次のような二つの疑問です。まず、イエスが「ダビデの子」であるという主張は、それが血統や家系に基づいて子どもの本質を決めようとするものであるならば、もはや現代には通用しないのではないか。そして二つ目は、マリアの子が婚外子であるにせよ、あるいは聖霊による処女懐胎であるにせよ、何れにせよ妊娠の事実経緯にもとづいて生まれる子の価値について云々することは、同様に疑わしいことではないのか。――これらの疑問を胸に、もう一度マタイ福音書のテキストを見てみましょう。
まずヨセフについて、彼は「正しい人であったので、マリアのことを表ざたにするのを望まず、ひそかに縁を切ろうとした」とあります。「正しい人」とは律法に忠実な人という意味でしょう。
ヨセフは聖霊による子どもなどという畏れ多い存在と関わり合いになるのを避けようとした、という伝統的な理解があります。しかしこれは本当らしくありません。ヨセフは天使から教えられて初めて、マリアの胎の子が「聖霊による」と知ったと思われるからです。それよりも律法に照らせば、婚外妊娠するような許嫁はおよそ妻に相応しくない一方で、それでもマリアの行く末を慮(おもんぱか)ったヨセフが、最大限の譲歩として「密かに」離縁しようとしたという理解があります。これが一般的なものでしょう。しかしさらに、「正しい」とは他者への根源的な優しさを意味しており、それゆえにこそヨセフはマリアに配慮したという理解があります。マタイ福音書は律法に示された神の本来の意志を、他でもない根源的な他者への優しさと理解しますので、この解釈も大いにありうると思います。
さて、夢に現れた天使はヨセフに向かって、そのような状況にある許嫁を妻として迎えることを恐れるなと告げます。さらに「その子をイエスと名付けなさい。この子は自分の民を罪から救うから」と。「イエス」すなわちヘブライ語の「ヨシュア」とは「ヤハウェは救い」という意味の名です。この子には、その民族を罪から「救う」という使命が神から託されているというわけです。そして子どもを名付けるとは、その子を法的に「息子」として認知する行為でした。こうしてイエスは、天使の言葉に促されたヨセフによる認知行為によって、ダビデの末裔に連なります。これは血統主義を超える、神が与える約束による父子関係です。
では、マリアの妊娠はどうでしょう。「聖霊による」という発言が、母親の社会的な認知や妊娠の事実経緯を一切無視していることに注目しましょう。この子の誕生は神の創造的な力によるという意味ですから。この筆致もまた――どれほどヘレニズム・ローマの世界で「神による妊娠」という観念が一般的であったとしても――、生まれる子の価値は母親の妊娠の経緯によらない、という意味に読むことができると思います。
ユダヤ教によるキリスト教批判は、「イエスの誕生にヨセフが関与していないというのなら、それは処女降誕などではありえず、婚外子であるに違いない」というものでした。しかしマタイ福音書の叙述はもっと繊細です。マリアの妊娠の事実経緯はオープンなままに、生まれてくる子どもに神が与える使命だけに注目して、その誕生は「聖霊による」と述べるのです。考えてみれば、どの子どもであっても皆、神の霊によって生を受けるのです。
VI
「このすべてのことが起こったのは、主が預言者を通して言われていたことが実現するためであった。『見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。この名は、『神は我々と共におられる』という意味である」――この旧約引用は天使の言葉でなく、福音書の物語り手の声です。つまりイエスの誕生が「神、我らとともに」という約束の成就であったことを理解できるのは、イエス誕生前後の両親でも天使でもなく、福音書の背後にある共同体そしてそれを読む私たちです。
ご存知のように「おとめ」という表現は、後に「処女」の意味に理解されるようになりました。しかしヘブライ語の原語「アルマー」は若い女性の意、ギリシア語の翻訳語「パルテノス」も基本的には同様です。外典福音書には、マリアが神殿で育てられ、処女のままでいるために男寡(やもめ)のヨセフの「妻」になり、処女のまま息子イエスを妊娠し、出産後も処女であったという物語がありますが(『原ヤコブ福音書』)、そうしたストーリーが生まれるのは、もっと後のことです。
マタイ福音書が描く「父」としてのヨセフの役割は、妻に息子を産ませることで自分の血統を伝えることにはありません。むしろ神が与えた命を――その母とともに――天使の加護の下で守ってやるのが彼の役割です。「聖霊による子」を宿すマリアの「母」としての役割も、これに似ています。そのように生まれてくるイエスが「神、我らとともに」という預言の成就であるのは、私たちのアイデンティティが血筋や誕生の経緯によらず、命の創造者である神から来ることを、このイエスが、私たちの一人として、他者への根源的な優しさに貫かれたその生き方を通して、私たちに示したからであると思います。