主は言われた。「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに見、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を聞き、その痛みを知った。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出し、この国から、広々としたすばらしい土地、乳と蜜の流れる土地、カナン人、ヘト人、アモリ人、ペリジ人、ヒビ人、エブス人の住む所へ彼らを導き上る。
見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに届いた。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を見た。今、行きなさい。わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。
モーセは神に言った。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」。
神は言われた。「わたしは必ずあなたと共にいる。このことこそ、わたしがあなたを遣わすしるしである。あなたが民をエジプトから導き出したとき、あなたたちはこの山で神に仕える」。
「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」。この名は、「神は我々と共におられる」という意味である。
今年もクリスマスが近づいてきました。私たちはクリスマスに何を祝うのでしょうか。―主イエス・キリストの御降誕を、主イエスの誕生を、私たちは祝おうとしています。
それでは、イエスとは、ベツレヘムの馬小屋で生まれたと言われているイエスとは、どのような方なのでしょうか。
マタイによる福音書の先ほどお読みしました箇所には、「その方は、インマヌエルと呼ばれる」と書かれています。ベツレヘムでマリアから生まれた方が、「インマヌエル」という「呼び名」で実際に呼ばれたことはなかったようです。
マタイによる福音書の記者は、イザヤ書7章14節を引用し、その言葉を新しいメシアの誕生を預言する言葉と理解し、その言葉が成就したと考えました。そこには、「見よ、おとめが身ごもって、男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」と書かれています。マタイは象徴的に、「この方はインマヌエル」と呼ばれるにふさわしい方だと考えたのです。
インマヌエルという呼び名は、「インマヌ」つまり「われわれとともに」という言葉と、「エル」つまり「神」という言葉から成り立っています。今朝は、主イエスがどうして「インマヌエル」と呼ばれるにふさわしい方なのかを考えてみたいと思います。
さて、神がともにおられるということはどういうことでしょうか。「神がともにおられる」という言葉を聞くと、私は、神がモーセに向かって「わたしはあなたとともにいる」と語ったことを思い起こします。その時の様子が、先ほどお読みしました旧約聖書の出エジプト記3章に描かれています。
モーセについては、皆さんもご存じだと思いますが、モーセが活動した時代の様子は、出エジプト記1章11節以下を読むとよくわかります。そこにはこう書かれています。
「エジプト人はそこで、イスラエルの人々の上に監督を置き、強制労働をさせ、重い労働を課して虐待した。イスラエルの人々は、ファラオの物資貯蔵の町ピトムとラメセスを建設した。しかし虐待されればされるほど彼らは増え広がったので、エジプト人はますますイスラエルの人々を嫌悪し、イスラエルの人々を駆使して、粘土をこねさせ、れんがを焼かせ、農作業などのあらゆる重労働をさせて彼らの生活を脅かした。彼らが従事した労働はいずれも過酷を極めた」。
このようなイスラエルの人々を、神はエジプトから解放し、新しい地へと導こうとしました。そしてその時に、モーセという指導者が立てられました。
さきほどお読みしました3章7節以下は、神がモーセをイスラエルの指導者として立てるという場面です。この箇所は、今年の7月に私がここで説教をした際に、神が<顔>を持っていることを説明するために引用した箇所ですが、大切な箇所だと思うので、前回よりやや詳しく内容を確認したいと思います。
出エジプト記3章7節以下を読んでみましょう。
「主」つまり「神」は言われました。
「わたしは、エジプトにいるわたしの民の苦しみをつぶさに<見>、追い使う者のゆえに叫ぶ彼らの叫び声を<聞き>、その痛みを<知った>。それゆえ、わたしは降って行き、エジプト人の手から彼らを救い出す‥‥」。
さらに9節以下にこうあります。
「見よ、イスラエルの人々の叫び声が、今、わたしのもとに<届いた>。また、エジプト人が彼らを圧迫する有様を<見た>。今、行きなさい。わたしはあなた(=モーセ)をファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」。
この箇所から、「神がともにおられる」ということはどういうことなのかがよくわかります。
神は、イスラエルの人々の苦しみを<見られ>、彼らの叫び声を<聞かれ>、そして彼らの痛みを<知られ>ました。ここに<見る>、<聞く>、<知る>という言葉が出てきますが、これはとても大切なキーワードです。ここからわかることは、7月にもお話したことですが、「神」が、私たちに<顔>を向け、私たちの苦しみや痛み、悲しみを、<見>、<聞き>、<知ってくださる>ということです。これが「ともにいる」ことの第一歩と言えます。
神はさらに、人間の苦しみや痛みや悲しみを見、聞き、知られた上で、その人たちのもとへ「降って行かれ」ます。神は、イスラエルの人たちのもとへ、神のほうから、近づいて行かれます。神はまさに、苦しむ人々を救い出すために、その叫び声を知られ、嘆き悲しむ人たちのいるところに近づいていかれます。これが「ともにいる」ことの第二歩と言えます。
さてその際に、神はひとりで行動されるのではありません。イスラエルの人々の解放を、神は、ひとりで成し遂げようとはしません。神は、モーセを立て、モーセの手によって、イスラエルの民をエジプトから解放させようとします。このモーセは、神にとっては「協力者」であり、イスラエルの人々にとっては「指導者」です。いずれにせよ、神は、行動を起こすときにも、人間とともに行動を起こす方なのです。神は、苦しむ人、嘆き悲しむ人たちのいるところに近づいていかれ、その人々を救うために人間とともに行動を起こします。これが「ともにいること」の第3歩と言えます。
12節で、神はモーセに、「わたしは必ずあなたとともにいる」と語っています。神はモーセとともにおられ、モーセとともに、イスラエルの人々をエジプトから解放しようとされました。そしてそのような仕方で、神は、イスラエルの苦しみの中にある人々とともにおられようとしたのです。
ともにいることの大切さ、―これは、私たちにとってもあてはまることではないでしょうか。
たとえたくさんの「財産」を築き、高い「地位」を手に入れたところで、もし私たちが自己中心的に生きるなら、自分のことしか考えないなら、私たちは幸せになれるでしょうか。たとえば古代のローマ帝国の皇帝の中には、自分が「皇帝」という絶大な権力を手に入れたものの、自分の部下や、自分の家族までも信じることができず、孤独のうちに歩まなければならなかった人たちがいました。自分の地位が狙われるのではないかと疑心暗鬼にとわれると、周囲の人たちを誰も信用することができなくなり、少しでも有能な人がいると、その人を遠ざけたり、その人のいのちを奪ったりするようになります。ヘロデ大王は、ローマの皇帝ではなくユダヤの王でしたが、自分と血のつながりのある人たちも信用できず、多くの有能な人物を追放したり、処刑しました。ベツレヘムで新しい王(=イエス)が生まれたと聞いた時には、不安にかられ、幼児のうちにいのちを奪おうと考え、多くの幼いいのちを奪いました。このような王は、当然、周囲の人たちからも信用されず、孤独のうちを歩まなければならなくなります。彼らは、自分の地位を守ろうとすればするほど、逆に、人々からうらまれ、皮肉なことに、きわめて短期間のうちにその地位を奪われることになりました。これは極端な例かもしれませんが、実際にそのようなことは現代においてもあるのではないでしょうか。
それでは人と人との交わりを深めるために、信頼しつつともに歩むために、私たちはどうしたらよいのでしょうか。
大切なことは、相手のために何かをしようと計画や目標を立て、その結果、どれだけ達成できるか‥‥ではなく、相手とともに歩むことができるか、相手とともにいることができるか‥‥ということではないでしょうか。
何かを達成するが大切なのではなく、「ともに歩む」ということ自体が大切なことであり、「ともに歩む」ためには、まず「ともにいる」ことが、つまり、「それぞれが心を開いて、ともに存在する」ことが大切なのではないでしょうか。
相手のために何かをすることは、大切なことです。何かできることがあるなら、ぜひしたらよいと思います。でも、その前にもっと大切なことがあります。何もできなくても、その相手の悩みや苦しみ、悲しみや痛みを知って、ともにいるということです。
子どもが風邪を惹くときに、医者に診てもらいます。医者は検査をしたり、薬を与えてくれます。けれども医者さえいればいいのではありません。私たちには、医者でなくても、できることがあります。子どもが病気になるときに、親は、医者のように検査したり、薬を調合したりはしませんが、子どもといっしょにそこにいて、看病することは可能です。親がいっしょにいてくれるから、子どもは安心して睡眠をとり、早く元気になりたいという気持がわいてきます。
大人どうしの場合は、誰かが風邪をひいても、その人といっしょにいる必要はないと思います。でも相手を心配し、気にかけることはできます。そして私たちは、相手のために心をこめて祈ることができます。相手の困難な状況を知り、相手に近づき、自分が相手のことを心配していると伝えるだけで、相手に大きな励みを与えたり、希望をもたらすことになります。またその上で、さらに、相手を医者のもとへ連れて行ったり、薬を取りに行ったり、必要なものを運んだり‥‥というような具体的な行動をとることができます。
私たちは、「ともにいてくれる人」、たとえ何が起きようとも「ともにいてくれる友人や知人」をどれだけ持っているでしょうか。たとえ少ない人数であったとしても、もしそういう人たちがいるなら、その人たちを大切にすべきだと思います。また、皆さんの中には、「自分には誰もいない、自分は孤独だと」感じておられる方がいるかもしれません。でも、「自分は孤独だ」と感じておられる方は、ごく身近な人たちの中にも、たくさんいるのではないかと思います。そのことに気づき、自分自身を閉ざさず、人と人との輪をさらに広げる努力をすべきだと思います。
いずれにせよ、私たちは、「ともにいることの大切さ」をもっと、学ぶべきだと思います。その際に、私たちは、「神がいつもともにいてくださる」ということを聖書からさらに学び、「神がともにおられる」ことを祈りのうちに確認しつつ歩むことが大切なことだと思います。
神は、私たちが山を登ろうとするときに、山の頂上にいて、下を見下ろし、ただ「がんばれ!」と声をかける方ではありません。私たちのいるところまで降りてきてくださり、私たちとともにいて、「いっしょに歩もう!」と声をかけてくれる方です、私たちが苦しんでいるのを見て、私たちが弱音を吐くのを聞いて、私たちが疲れているのを知って、私たちの手をとって、ともに歩んでくださる方です。私たちがもしそこで倒れたら、私たちを介抱し、場合によっては、私たちを背負って頂上まで連れていってくださる方です。そういう神とともに歩めることを喜び、神に支えられて力強く歩めるようになりたいと思います。
さて、私たちは今、クリスマスを迎えようとしています。
この時に、「神が、私たちとともにおられようとしている」ことを覚えたいと思います。
神は、イエスとともにおられました。イエスもまた神とともにおられました。そのイエスが、私たちとともにいてくださるのです。
私たちと常にともにいて、私たちを知り、私たちを導き、許し、力づけてくれるイエスがいるからこそ、私たちもまた、さまざまな人たちとともにいることができるようになります。イエスに教えられ、イエスに導かれて、私たちどうしもまた、心を開き、さまざまな壁を打ち破ってともに存在することができるようになります。ともに支え合い、ともに行動することができるようになります。イエスこそ、私たちが「ともに存在し」、「ともに歩む」ことを可能にしてくださる方です。
このクリスマスに、私たちの悩みや苦しみを知ってくださるイエスが、私たちのところに来て、私たちとともにいてくれることを覚え、感謝しましょう。そしてその主イエスに支えられ、導かれて、私たちもまた「ともにいること」ができるよう努力しましょう。そしてこのクリスマスに、ともにいることの大切さ、ともにいることの喜びを、みんなで再確認し、「わたしたちとともにいてくださる方」の誕生を心から祝うものとなりましょう。
主なる神さま、
私たちの苦しみや悩みを知ってください。
私たちのところに来てください。
私たちとともに歩んでください。
このクリスマスに、私たちとともにいてくださるイエス・キリストの誕生を心から祝うことができますように。
主イエス・キリストのみ名によって祈り願います。
アーメン