コヘレトの言葉3章1-8節に、「何事にも時があり、天の下の出来事にはすべて定められた時がある。生まれる時、死ぬ時、植える時、植えたものを抜く時、云々・・・」という有名な言葉がある。「コヘレト」とは「召集者」という意味で、具体的にはソロモン王を指すとも言われる。確かに、ソロモンがこれらの言葉を語ったとすれば納得がいく。人生のさまざまな局面をこれほど簡潔でしかも的確な表現で描き出すことは、深い知恵を持った人にしか出来ないことだからである。
ところで、その7節に、「黙する時、語る時」と言われている。これは、今の私にピッタリ当てはまる。私はほぼ50年間、ほとんど毎週のように説教や聖書研究という形で「語って」きた。今や、「黙する時」が来たのである。神を畏れ、心から感謝しつつ、しかし、同時にいささかの解放感をもって、私は「この時」を受け容れたい。
さて、私は今、代々木上原教会牧師として最後の説教をしている。一体、何を語ろうとしているのか? このことについては、しばらく前から何度も考えた。その挙句、私は、「自分の説教の基本線は何であったか」について語ることにした。もちろん、自分のことを語るのではない。神が、説教者としての私をどう活かし・導いて下さったか、その道筋を証ししたいのである。
先ず、「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1章15節)というイエスの言葉について述べたい。この約束こそは、私の生活を根底から支える土台であった。私の説教の「基本線」と言ってもいい。
罪と偽りに支配されたこの世界は、憎しみと争いに満たされ、どんなに祈っても戦争と流血は止まらない。この世は死と絶望の鎖に縛られているように見える。
だが、主イエスは言われる。この悲惨は永遠に続くわけではない。それはやがて必ず終わる。罪と死の支配は引っくり返されて、神の真実の支配・愛の支配が来る、と。「時は満ち、神の国は近づいた」! その時には、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」(ヨハネ黙示録21章3-4節)と言われているように、「最初のものは過ぎ去り」、全く新しく神の愛の支配が始まる。神の国が来る! これこそ私たちの宣教の「基本線」である。「市ヶ谷集会」が発展して伝道所になる時、「みくに伝道所」という名前を選んだのもこの理由からであった。
神の国の福音。この聖書の真理は、主イエスの十字架と復活によって決定的に明らかにされた。私の説教の「基本線」はこれであった。そして、それを脇から支え・補強してくれたのが、多くの人々との人間的・思想的な出会いである。
第一に、鈴木正久牧師の名を挙げなければならない。神学校に入ったとき、私は初めてこの人物と出会い、卒業するまでの6年間、西片町教会でその指導を受けた。彼の思想と言葉、特に説教は、深い「インスピレーション」(霊感)の源であり、それは私にとっては神学校で学んだ事柄よりも遥かに大きな助けとなった。カール・バルトの神学に目を開いてくれたのも彼である。
神学校2年生の頃、私は自分の中にある「不真実なもの」にすっかり嫌気がさして、自分の信仰などは「偽善」に過ぎないと思うようになっていた。「真面目さは、自分が絶えず嘘をつくということを把握する」というニイチェの言葉に絶望的な共感を覚えたのもその頃である。そんな日々の中で、ある日偶々バルトの『ローマ書』を開いた私は、普通ならGlaube(信仰)と訳されるギリシャ語「ピスティス」を、バルトがGottes Treue(神の真実)というドイツ語に訳していることに気づいた。それは、目が覚めるような経験だった。たったこれだけの言葉によって絶望から解き放たれるとは信じ難いことだが、事実である。信仰とは自分の「心の在りよう」ではない。自分の中にどれ程多くの「不真実なもの」があったとしても、そんなこととは関わりなく神は真実である! この「神の真実」に自らを委ねること。これが「信仰」である。このことに目を開かれた時、私は新しく生き始めることができたのである。
ところで、先ほどから私は「基本線」という言い方をしているが、これは正に一つの「線」であって、人と人とをつなぎ、世代から世代へと受け継がれる。鈴木正久との出会いがカール・バルトとの出会いにつながったように。
先週、村椿牧師の師匠でもあるB・クラッパートというドイツの神学者の講演を聞く機会があった。翌日は彼を囲んで夕食を共にし、いろいろと話し合ったが、実は、私は1966年にドイツに留学した時から彼とは面識がある。共通の友人・知人のその後の情報を交換するなど久し振りに楽しいひと時を共有した。特に、彼も私も共通して何人かの神学者から決定的な影響を受けているという事実を確認できたことは大きな喜びであった。彼はバルトから強い影響を受けたが、私も同じである。彼はボンヘッファーによってさらに目を開かれたと言うが、私も同じである。その他にも、彼の口からは数人の神学者たちの名が次々に飛び出したが、それらの人々はほぼ同じラインの上に立っていて、神学理論だけでなく、例えば反ナチ教会闘争とか、現代の平和問題との関わりなど、生き方(倫理)においても共通している。
私は、この教会で13年の間、心を込めて説教してきたが、その「基本線」は私個人の思想ではない。預言者や使徒たちを通して私たちに伝えられた不滅のメッセージであり、国境を越え・世代を超えて私にもつながり、そして、この代々木上原教会にもつながっている。主イエスの「神の国の福音」だ。これが、確固としたラインを形成して次の世代にも伝えられることを私は信じ、そのことを祈りたい。