3節に、「サウロが旅をしてダマスコに近づいたとき、突然、天からの光が彼の周りを照らした」とある。サウロとは回心前のパウロの名前だが、キリスト教徒迫害の使命を帯びてダマスコに近づきつつあった彼は、この時「地に倒れ」、その後「三日間、目が見えず、食べも飲みもしなかった」(9節)という。一体、何が起こったのか?
ところで、8月19日の『毎日新聞』<余録>欄に、興味深い文章が載っていた。「フランスの作家スタンダールは19世紀初め、イタリア・フィレンツエの聖堂で絵を見上げるうちに突然めまいに襲われ、失神したようになった。同様の症状を訴える観光客が相次ぎ、<スタンダール・シンドローム>なる言葉が生まれた。1990年代にはイタリアで同名の映画も作られた」、というのである。
この出来事の原因はまだ解明されていない。さまざまな説明がなされている。中には「美術品を見上げていると首の血管が圧迫されるからだ」というのもあるそうだが、これでは身も蓋もない。<余録>の執筆者は、「芸術に人の魂が吸い寄せられ我を忘れた状態になった」のではないかと考えている。かつて「平和祈念展示資料館」(新宿区)を見に行ったとき、同じように「魂が吸い寄せられるような」経験をしたことを思い出して、彼はこう書いている。「抑留や引き揚げ関連の展示品を眺めていると、戦時の日本へ吸い込まれそうになる。この場合は芸術的高揚ではなく、過去と現代の落差に対する<めまい>だ」。
こうした「我を忘れた状態」、あるいは「めまい」は、いろいろな場合に起こるものだろう。私自身にも、似たような経験がある。
洗礼を受けた翌年、私は東京の神学校で勉強して牧師になりたいと秘かに決心した。だが、家の経済状態を考えると、そんなことはとても無理である。だから、この決心を中々言い出せずに悩んでいた。ところがある晩、教会での祈祷会から一人で帰宅する途中、突然、天から「死ねばいいではないか」という声が聞こえて来たのである。本当に聞こえたのかどうかは分からない。そのような気がしただけかもしれない。しかし、突然聞こえて来たこの声は、私の心を揺り動かした。パウロのように地に倒れたりはしなかったが、私は「我を忘れた」ようになった。あるいは、急な「めまい」に襲われた人のように暫く立ち尽くしていた。そして、これは「死ぬ気になって進めば、道は開ける」という神の声に違いない、と信じた。私は直ちに教会に引き返し、牧師に決心を打ち明けた。その時、今日までの道が決まったのである。
パウロの場合、突然天から呼びかけた声は、「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」(4節)というものであった。これによって、パウロのそれまでの生き方全体が問われたのであり、いわば、根本的な悔い改めが迫られたのであった。
なぜ、わたしを迫害するのか?
パウロは狼狽した。「主よ、あなたはどなたですか」と問うと、「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」(5節)と、またしても彼の生き方の根本問題に触れるような答えが返ってきた。彼は「地面から起き上がって、目を開けたが、何も見えなかった」(8節前半)。これは誇張ではない。彼のこれまでの人生が根本から問われ、揺り動かされたからである。
なぜ、私(イエス)を迫害するのか? 私はひたすら愛を教え、すべての人が互いに愛し合って共に生きることを求めただけなのに、その私をあなたはなぜ否定するのか?
『ルカ福音書』4章18節によると、イエスは、「主の霊がわたしの上におられる。貧しい人に福音を告げ知らせるために、主がわたしに油を注がれたからである。主がわたしを遣わされたのは、捕らわれている人に解放を、目の見えない人に視力の回復を告げ、圧迫されている人を自由にし、主の恵みの年を告げるためである」(→イザヤ書42章7節)と言われた。つまり、彼は、預言者イザヤの言葉に示されているような神の国の到来を約束した。いや、それがこの世界の中で既に実現し始めていることを証言したのである。そのイエスを、なぜ迫害するのか?
この問いは、鋭い矢のように、パウロの心臓部を射抜いた。彼は生涯、この問いのことを忘れることが出来なかった。『使徒言行録』22章や26章で、繰り返しこのことを語ったのはそのためである。
『ガラテヤの信徒への手紙』には、彼が「かつてユダヤ教徒としてどのようにふるまっていたか」(1章13節)を告白したところがある。それによると、彼は決して不真面目な人間ではなかった。むしろ、真面目すぎた。彼は「先祖からの伝承を守るのに人一倍熱心で、同胞の間では同じ年頃の多くの者よりもユダヤ教に徹しようとしていた」(14節)。この律法原理主義が、彼を迫害者にしたのである。律法の義を求めるのに熱心なあまり、彼は他人を裁くようになり、徹底的にキリスト教徒を迫害し滅ぼそうと考えるようになり、そして、ただ人を愛して生かそうとしたイエスを迫害するようになった。『ローマの信徒への手紙』2章に、彼は「あなたは、他人を裁きながら、実は自分自身を罪に定めている」(1節)と書いたが、これは自分のことである。律法に頼り、神を誇りとし、その御心を知っていると自負しながら、その自分は律法の核心である愛に背いていた。そのような彼の生き方を、神の言葉は抉り出したのである。「サウル、サウル、なぜ、わたしを迫害するのか」。
これによって、彼は真実に目覚めた。それは、「突然、天からの光が彼の周りを照らした」ことによって起こった。光は突然、「上から垂直に」(カール・バルト)私たちを照らして、私たちの生き方を根本的に変えるのである。