I
今日は平和聖日です。『日々の聖句(ローズンゲン)』に従ってテキストを選びました。「タラントンのたとえ」は、マタイ福音書では、終末に関するイエスの教えの段落に出ます(マタイ24-25章)。前後の文脈を見ると、主題は「最後の審判」です。およそ次のように言われています。すなわち神以外に、世の終わりがいつ来るかを知る者はおらず(24,36)、審判者である「人の子」はむしろ思いがけないときに到来する(24,44)。それは僕(しもべ)が、外出した主人の突然の帰宅を出迎えることに(24,45以下)、あるいは遅れて到着する花婿をいつでも出迎える準備が乙女たちにできていなければならないのに似ている(25,1以下)。「だから目を覚ましていなさい。あなた方は、その日、その時を知らないのだから」(25,13)。そして私たちの「タラントンのたとえ」があり、続いて「人の子は、栄光に輝いて天使たちを皆従えてくると、その栄光の座につく」(25,31)という言葉で、諸民族の審判が描かれてゆきます。――このような福音書の文脈にあって、タラントンのたとえの主人は、明らかに再臨のキリストを指しています。決算の場面は最後の審判のシンボルです。
しかしいったい、どのような意味で、この「裁き」のたとえが「平和」の主題と関係があるのでしょうか。この問いをもって先ほど朗読した旧約聖書、イザヤ書の有名なメシア預言を読み直すと、次のことに気づきます。すなわちメシアが来れば、彼は見た目や世間の評判に従って判断せず、むしろ弱い人や貧しい人のために正当な裁きを行う。発言力の強さに任せて自分勝手にものごとを動かし、神に逆らってきた者を「死に至らせる」。メシアの真の審判は正義と真実であり、それが実現するとき、動物同士また動物と人間の間でも弱肉強食の関係――草食獣が肉食獣に喰われたり、人が毒をもつ動物から害を受けたりする関係――は終わりを迎え、あらゆる命の平和共存が生まれるだろう。
つまり聖書にいう神の審判は平和を目指し、平和を実現するプロセスなのです。同時に真の審判は、現状を支配している諸関係や、当然と見なされているものの考え方に、根本的な変革をもたらすとも言えます。そのような視点から、今日のテキストにとりくんでみましょう。
II
タラントンのたとえでは、主人が自分の僕(しもべ)一人ひとりの「力に応じて」、財産を託します。そして5タラントンもらった人はさらに5タラントンを儲け、2タラントンもらった人はさらに2タラントンを儲ける、といった具合にそれぞれ2倍の収益をあげます。つまり各人の「力に応じて」分配するという主人の判断は、その正しさが証明されたかたちになります。
ちなみにこのたとえ話の別ヴァージョンが、ルカ福音書に「ムナのたとえ」として伝えられています(ルカ19,11以下)。そこでは主人は十人の僕に1ムナずつ、合計10ムナを託します。そしてある僕は1ムナで10ムナを儲けますが、別の僕は同じ1ムナで5ムナを儲けたという具合に数字が配置されています。マタイとは異なり、この演出は、同じだけもらっても能力の違いに応じて結果にも差が出るという意味ですね。たとえの話者は、同じ話にもその演出に自由なヴァリエーションを加えるのです。
さて、マタイ版とルカ版の演出上の最大の違いは、お金の大きさです。1ムナは100ドラクメに相当する一方で、1タラントンは60ムナつまり6000ドラクメに当たるそうです。1ドラクメ(ないしデナリオン)が教養のない日雇い労働者のおよそ1日分の労賃と言われますので、1ムナは約4ヵ月分の収入、他方で1タラントンは約20年分の給料に当たるでしょうか。マタイ版の方が、金額が桁違いに大きいのです。1タラントンとは、現在の年収500万円の人にとって1億円がポンと渡されたようなものです。5タラントンは5億円。日本には、お母さんから億単位のお金をポンと貰った政治家がいましたが、何れにせよこれはつましい庶民の世界の話ではありません。しかも主人は、「忠実な良い僕だ。よくやった。お前は少しのものに忠実であったから、多くのものを管理させよう」と言います。1億円や5億円をさして「少しのもの」という神経が私には分かりません。今で言えば、大手の株取引などの世界で働く人のお話です。
「ご主人さま、あなたは蒔かない所から刈り取り、散らさない所からかき集められる厳しい方だ」(24節)――この第三の僕の発言の方が、私たちの日常感覚に近いように感じます。ところが、託された1億円を大切に保管していたこの僕に向かって、主人はこう言います、「それなら、私の金を銀行に入れておくべきであった。そうしておけば、帰ってきたとき、利息着きで返してもらえたのに」(27節)。当時のガリラヤで「銀行」などというものがあったのは領主アンティパスの王宮があった二つの都市つまりセッフォリスとティベリアだけです。しかも旧約律法は、民族同胞に利子つきで金を貸すことを禁じています(申命記23,20-21他)。キリスト教徒もこの習慣を継承しました。たとえの主人は異教徒のように見えます。
この主人は、じっさい情け容赦ない金儲け至上主義の権化のようです。儲けを出さない僕から資金をとりあげて、利潤を出した僕の方に付替え(28節)、「だれでも持っている人は更に与えられて豊かになるが、持っていない人は持っているものまでも取り上げられる」と暴言を吐き(29節)、「この役に立たない僕を外の暗闇に追い出せ」(30節)と命じるからです。まるで弱者を搾取し排除する、むき出しの資本主義を肯定しているかのようではありませんか。いずれにせよこの主人のイメージは――いかにマタイ福音書の文脈で、それが再臨のキリストを示唆するとはいえ――そのまま納得できるものではありません。
いったいどちらが正しいのでしょうか。主人でしょうか、それとも第三の僕でしょうか。
III
それでもたとえの物語り手は、主人の立場を擁護し、第三の僕に代表される現実理解に変革を迫っているようです。いろいろな人が、その可能性をさまざまに探ってきました。私も以下に、そのことを試みてみたいと思います。
冒頭で、審判は平和を目指しており、正義と真実による裁きは、これまで自明とみなされてきた現実理解の根本的な変革をともなうと申しました。主人から託された資金を保管し、まったく投資しなかった第三の僕は、どのような現実理解をもっていたでしょうか。彼は「恐ろしくなり、出かけて行って、あなたのタラントンを地の中に隠しておきました。ご覧下さい。これがあなたのお金です」と主人に釈明します(25節)――まるで、〈私にはもう係わり合いのないことです、ではさようなら〉とでも言わんばかり。つまり彼の現実理解はリスクを冒さず、もっているものを失わないことを最優先し、現状を維持するというものです。今の時代、そうした方がよい場合はもちろんあります。しかしそれでは、いったい何のために与えられた可能性であったのか・・・。
いま仮に、第四の僕がいたとしたらどうでしょうか。主人から託された1タラントンを投資してみたが、すっからかんになってしまったという第四の僕がいたとしたら。主人はこの僕を叱りつけて、追い出したでしょうか。――そもそもこの主人は、僕たち各人の力量を見抜ける人だったのではありませんか。だったら、この僕が投資しても失敗するだろうことくらい初めから分かったにちがいない。ならば失敗した僕に対しても、「忠実なよい僕だ。お前は失敗したがよくやった。主人といっしょに喜んでくれ」と声をかけたように思います。彼はせっかく預けたのに何もしないことに腹を立てているのですから。しかも儲け額のちがいにもかかわらず、まったく同じ言葉で褒めているのですから。
IV
私たちが平和な世界を望むときも、これまでの現実理解の枠を破る必要があります。与えられているものを自分の身の安全のためにキープするだけでは足りない。強者と弱者の関係を平和共存の関係に転換するには、私たちのもっているものを神から託されたものと見なして、少しずつでもいいから使ってみるべきなのです。
学生たちのスタディツアーでお世話になっている南インド・ケララ州の孤児院から、先日SOSメールが届きました。孤児院で暮らす二人の姉妹に、看護学校に入学するチャンスが生まれたのだけれど、一人年間25万円の授業料と生活費の工面が難しいという知らせです。彼女たちには、まともな親の家がないからです。看護士という職業は以前、いろいろなカーストの人の体を触るので賤しい職業と見なされたそうです。しかし今では、自立を目指す多くの若い女性にとって憧れの職業になりました。英語の話せるケララ人女性の看護士は世界中で需要があるそうです。
二人の姉妹を見知っている学生たちは、募金に立つことを決めました。毎日お昼の礼拝後、学生食堂の出口に立って二週間ほど、洗濯石鹸の紙箱を改造した募金箱をもって呼びかけを行いました。学生たちはそれまで、親などの自分を愛してくれる人からものをもらったことはあっても、赤の他人に「助けて下さい」「お金を下さい」などと頭を下げた経験は、ほぼ皆無です。最初はほとんど声の出なかった学生も、しばらく活動しているうちに、チャペルで立派なアピールができるようになりました。愛のゆえに物乞いをすることができるようになることは、学生たちにとって大きな霊的成長です。それは富める者と貧しい者の違いを少しだけ乗り越えて、狼と子羊が共存する関係をつくりだす練習だからです。――イエスも私たちに、次のような言葉を残しています。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい。自分の命を救いたいと思う者は、それを失うが、わたしのため、また福音のために命を失う者は、それを救うのである。」(マルコ8,34-35)