イエスがヨルダン川でヨハネから洗礼を受けたとき、「天が裂けて”霊”が鳩のように御自分に降って来るのを御覧になった」(10節)という。そして、「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」(11節)という声が天から聞こえた。この時、イエスは自らの生涯の使命を自覚されたのであり、これは聖霊の働きであった。
さて、聖霊は「鳩のように」降って来たというが、このことには何か特別な意味があるのだろうか? 私は興味をそそられて、キッテルの『新約聖書神学辞典』で「鳩」(ペリステラ)の項目を調べてみた。いろいろなことが分かった。
古代オリエントでは、鳩は「神の鳥」・「霊鳥」であった。最高神ゼウスを鳩で表現したコインがクレタ島で出土した。また、鳩は神々に捧げる犠牲用の鳥だからという理由で食用を禁じられた。死者の肉体から離れる霊魂を鳩で表した絵画もある。さらに、鳩は同じパートナーとずっと一緒に暮らすので、詩人たちはその「貞潔さ」を模範として賞賛した。ユダヤ人哲学者フィロンは、鳩を「理性」や「知恵」の象徴として重んじた、等々。このように、鳩は特別な鳥であった。
『ギルガメシュ叙事詩』(紀元前1800年頃)には、旧約の「ノアの箱舟」物語にも影響を与えた太古の洪水伝説が含まれているが、それによると、水が引き始めた頃、先ず鳩が、次に燕が、それから大烏が箱舟から放たれたということになっている。また、他の伝説では、天から一つの卵がユーフラテス川に落ち、魚によって岸に運ばれ、鳩によって暖められてヴィーナスが誕生したという。
旧約聖書では、鳩は「ノアの箱舟」の物語(創世記8,8以下)で大切な役割を果たしているが、これについては後で述べる。律法によれば、鳩は「いけにえ」として献げられる唯一の鳥であった。犠牲は「私有財産」の中から捧げられるべきものだったから、野獣や野鳥にはその資格がない。あるラビ文献の中に、「神はあらゆる木々の中から葡萄の木を、あらゆる花の中から百合を、あらゆる鳥の中から鳩を、そして、あらゆる動物の中から羊を選ばれた」と言われている位である。
新約聖書には、今日のテキストの他に、二つの重要な関連箇所がある。[1]両親が幼子イエスを主に献げるとき、「山鳩一つがいか、家鳩の雛二羽をいけにえとして献げる」(ルカ2,24)という掟に従った。キッテルは、これを次のように説明する。「鳩をいけにえとして献げる」のは、燔祭(焼き尽くす献げ物)のための小羊を準備することができない貧しい人々のための救済措置で、このことは、イエスが生まれつき「低所得層」に属していたことを象徴的に示している、と。私はこの点に注目させられた。
[2]イエスは弟子たちを派遣する際、「蛇のように賢く、鳩のように素直になりなさい」(マタイ10章16節)と命じている。「素直に」(アケライオス)とは、「単純な誠実さ」を意味する。第3世紀の思想家テルトウーリアヌスはこの聖句を、「鳩の素直さ」のほうが「蛇の賢さ」よりも神に近いという意味に解釈したという。蛇は誘惑しようとするが、鳩は神の愛を顕そうとする、というわけだ。
このように考えてくると、イエスが洗礼を受けたとき聖霊が「鳩のように」降って来たという福音書の記述には、大切な意味があると思わずにはいられない。鳩はイエスの全生涯を象徴的に示唆しているのではないか。たとえば、彼の「尊い貧しさ」。彼が神に従った、その「単純な素直さ」を。
とりわけ、私は「ノアの箱舟」の物語を思い起こす。全世界が水の底に沈み、生物は悉く死んで150日が過ぎた時、水が引き始めた。箱舟はアララト山の上に止まった。ノアは箱舟の窓を開いて烏を放ち、次いで鳩を放ったが、それらは、まだ降りる場所が見つからないので帰ってきた。「さらに七日待って、彼は再び鳩を箱舟から放した。鳩は夕方になってノアのもとに帰って来た。見よ、鳩はくちばしにオリーブの葉をくわえていた。ノアは水が地上から引いたことを知った」(創世記8章10-11節)。
鳩は希望の証人なのである。
聖霊が鳩のようにイエスに降った。これは、イエスが人類にとって希望の源であることを聖霊が明らかにした、ということである。そして、聖霊は私たちをもこの希望の証人として立て、生かすのである。
共に、「造リ主ナル御霊ヨ、来タリマセ!」と祈りたい。