2月12日から28日まで、カナダのヴァンクーヴァーで冬季オリンピック大会が開かれる。とても楽しみだ。私にも結構「ミーハーな」ところがあって、フィギュアスケートやスキーのジャンプ競技、「チーム青森」が出場するカーリングなどはぜひ見たい。牧師がこんなことを言うのはどうかと思うが、礼拝や祈り会の時間と重ならなければいいが、などと秘かに思ったりする。
ところで、現在のオリンピック大会は、フランスのクーベルタン男爵の提唱により1896年に再興されたものだ。初めは夏だけで、そのモデルは「古代オリンピック」であった。これは、ギリシャ神話の最高神ゼウスに捧げるために、オリンピアの神域で続けられてきたスポーツの祭典で、B.C.776年以来の長い歴史を誇っていた。当時のことだから女人禁制で、参加は男子のみ、競技種目もそれほど多くはなかった。中距離走(400m?)・長距離走(スタジアムの直線コースを10回往復する。約5000m?)・幅跳び・円盤投げ・槍投げ・レスリング・ボクシング、それに4頭立ての馬に引かせた二輪車(戦車)レースなどがあったという。
パウロも、こういったスポーツには関心があったようだ。時々、それらしい言い方をしている。フィリピ3章13-14節に「賞を得るために、目標を目指してひたすら走る」とあるのはその好例で、これは、短距離レースを連想させる。今日の箇所の26節でも、彼は二つの競技を引き合いに出している。「やみくもに走る」と、「空を打つような拳闘」というのがそれで、これは長距離走とボクシングのことであろう。
「拳闘」について少し付け加えると、この種目は砂場のようなところで行われた。時間に制限はない。どちらかが片手を挙げて「参った」と言うまで延々と殴り合う。拳を保護するために動物の革をなめしたものを手首の上まで巻きつけることもあったが、大体は素手だ。現在の「フライ級」とか「バンタム級」といった体重によるクラス分けもなかった。パウロは、恐らく拳闘をしている選手たちの姿を見たことがあるのではないだろうか。「空を打つような拳闘」という言い方には実感がこもっている。普段からよく練習をしていないと、相手のスピードについていけない。相手がうまくダッキングして打撃をかわすと、「空振り」になる。エネルギーを浪費する。その場面を、「空を打つような拳闘」と言ったのであろう。
パウロは、スポーツ選手の躍動する肉体や、目標に向かって集中する表情の美しさなどにも魅かれたと思うが、それ以上に、アスリートたちが良い結果を出すために日頃から節制し、鍛錬を怠らないことに感動したらしい。「競技をする人は皆、すべてに節制します」(25節)という言葉には感嘆の響きがある。
それだけではない。彼はそれら競技者のひたむきな姿勢をキリスト者の生き方の手本とすべきだ、と言うのである。「競技場で走る者は皆走るけれども、賞を受けるのは一人だけです。あなた方も賞を受けるように走りなさい」(24節)。
だが、その上で、パウロは、スポーツ選手たちとキリスト者とでは目的意識が違う、という点を指摘する。「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは朽ちない冠を得るために節制するのです」(25節)。
最近のスポーツ評論には、選手の「モチベーション」(動機づけ)を問題にするものが多いが、そのことであろう。選手たちは節制するが、その動機(モチベーション)は、名誉の「冠を得るため」だ。今日風に言えば「メダルを取るため」である。こういう目的があるから、彼らは節制する。
しかし、この冠は「朽ちる」ものだ、とパウロは言う。その意味は、名誉といっても絶対不変のものではないし、永遠のものでもない、ということであろう。金メダリストがその後の人生を全うするとは限らないし、かつては身を持ち崩したりする例もあった。自殺した人もいる。さらに、オリンピックに関連するスキャンダルが、最近、しばしば報道される。優勝者が実は秘かに「筋肉増強剤」を飲んでいたとか、その他の薬物を注射していたとか。それが露見して記録が取り消されたり、メダルを剥奪されたりすることも少なくない。そうなると、せっかく節制に節制を重ねて勝ち取ったメダルも価値を失う。「朽ちる冠」という言葉には、そういう意味もあるだろう。
だから、パウロは言うのである。「彼らは朽ちる冠を得るためにそうするのですが、わたしたちは、朽ちない冠を得るために節制するのです」(26節)。私たちが節制するのは、金メダルのためではない。朽ちない冠を得るためだ。モチベーションが違う、というのである。
では、「朽ちない冠」とは何だろうか?
今日のテキストの直前で、パウロは「福音のためなら、わたしはどんなことでもします。それは、わたしが福音に共にあずかる者となるためです」(23節)と言っている。キリストの福音に共にあずかる! これこそが「朽ちない冠」ではないだろうか。
そして、同じ『コリントの信徒への手紙一』によれば、「福音」とは、「十字架につけられたキリスト」(1章23節)のことだ。神は、知恵のある者や能力のある者、家柄のよい者を選ばず、むしろ逆に、そういう意味では「無に等しい者」(同28節)を選ばれた。そのことの象徴が、十字架につけられたイエスだ。彼は、十字架のどん底から永遠の輝く光の中へと復活した。私たちにとっては、これが福音なのである。
私たちが節制するのは、この福音に共にあずかるために他ならない。だから、私たちは「やみくもに走ったりしない」。つまり、「目標が不明瞭であるような仕方では走らない」(青野多潮訳)。また、「空を打つような拳闘もしない」のである。