2009.12.24

「神は我々と共に」

廣石 望

マタイによる福音書1章18-25節

I

キリスト教は、神がイエス・キリストにおいて現れ、私たちといつも共に歩んでくださると信じます。クリスマスは、私たちと共にある神の現れを祝う祭りです。では、どの「神」が私たちと共に歩むのでしょう。「私たち」とは誰のことでしょうか。そしていったいどのような仕方で、神は私たちと「共に」歩むのでしょうか?

II

イエス・キリストを通して到来する神はまずはイスラエルの神、彼らの民族神です。でもこの神は、人類全体の普遍的な神でもあります。

今日のテキストであるマタイによる福音書は、その前後を、インマヌエル(神我らと共に)というモチーフで枠づけられています。イエスの誕生にさいして「神は我々と共に」という古の預言が引用される一方で(1,23)、福音書の末尾では、復活したイエスがガリラヤの山上で、11人の弟子たちに「あらゆる異邦人を弟子とせよ」と宣教命令を与えた後で、最後にこう言います。「見よ、この私が、世の終わりまで、すべての日々にわたり、あなたたちと共にいる」(28,20[岩波訳])。つまり福音書の始まりと終わりに「〜と共に」というモチーフが現れます。

こうしてマタイ福音書は、「神我らと共に」という大昔の預言が、復活者キリストが弟子たちに与える「我汝らと共に」という約束によって成就したこと、つまり復活のイエスが共にいることで神が私たちと共にいることを、福音書の全体を通して、読者に理解させようとしています。しかも復活者が「あなたたち」というとき、そこには「すべての異邦人」、つまり私たち東アジアの信仰者たちも含まれるのです。――イエスの誕生は、過去の出来事として過ぎ去ることがありません。彼の人格は、いまも教会の霊的な現実を支える存在であり続けています。

III

次に、「神は我々と共に」と言われるときの「私たち」とは誰のことでしょうか? それは、やはりまずはイスラエル民族、そして他民族が含まれます。

今日のテキストは、神の子の処女降誕について物語りますが、このモチーフは古代世界において、ユダヤ民族以外のヘレニズム・ローマ世界に行き渡っていたものでした。例えば哲学者プラトン、アレクサンドロス大王、あるいはローマ皇帝アウグストゥスについて、神による妊娠ないし処女降誕の伝説が伝えられています。偉人というのは尋常でない生まれ方をするものだ、という考え方があったのでしょう。

他方でイスラエル民族は、神と人間の女性から〈合いの子〉が生まれるといった考えを、ひどく嫌いました。〈神は天に/人は地に〉というのが彼らの基本的な考え方です。「おとめが身ごもって男の子を産む」という預言においても(1,23に引用されるイザヤ書7,14)、「おとめ」と訳されたヘブライ語「アルマー」は、若い既婚女性というほどの意味です。彼らにとって、メシアがふつうに生まれる人間であることは当然のことでした。

 ところがそのイスラエル民族に固有のメシア期待が、マタイ福音書では、周辺文化において通常であった処女降誕の神話に結び合わされています。この福音書を生み出した共同体は、複数の民族からなるコミュニティーでした。イエスは、イスラエル民族と異民族の共通の期待を担って誕生します。ここで語られるのは、どの民族の出身者であっても理解できるような救済者の誕生物語なのです。

IV

最後に、「神は我々と共に」というときの「共に」とは、どのような意味であるかについて考えてみましょう。三つほど申し上げます。

第一に、ルカ福音書の誕生物語で「母」マリアが前面に出るのとは対照的に、マタイ福音書では「父」ヨセフの視点から、イエスの誕生が物語られます。描かれているのは、夫としてのヨセフの苦悩です。彼は婚約者マリアの妊娠を婚外妊娠だと思っています。ユダヤ教の習慣では、婚約は法的に結婚と同等に扱われました。だから妊娠そのものはよいのですが、それが婚外であることが公になると、マリアは姦通罪に問われます。ヨセフがマリアと「ひそかに縁を切ろう」(19節)としたのは、離縁すればマリアは独身で妊娠したことになり、少なくとも姦通罪に問われる可能性は低くなるということなのでしょう。でもその場合、彼女はシングルマザーになったはずです。――この危機をヨセフは、夢に現れた天使の助けによって乗り切ります。つまり世間的には疑わしい誕生を通してでも神は働き、常識的にはうまくゆくはずのない、マイナスから出発したカップルからでも、神はプラスをもたらす。神が私たちと「共に」歩むとは、一つにはそういうことです。

第二に、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」というイザヤ書の預言は、前後の文脈を読むと、その背景が戦争であることが分かります。周辺の国家が連合してユダ王国を攻撃してきそうだという危機的状況です。そのとき、「王の心とその民の心は、林の木が風に揺れ動くように動揺した」とあります(イザヤ書7,2[岩波訳])。預言者イザヤは、こうした状況の中で、「おとめが身ごもって男の子を産む」と預言しました。これは、戦争に勝利して民族に解放をもたらす者が生まれることへの期待、武力によって勝利をもたらすメシアへの期待であるようです(ただし異説あり)。これに対してマタイ福音書のイエスは、王ヘロデに命をつけ狙われ、親子ともども難民となって外国に逃げてゆく無力な赤ん坊にすぎません。ただし天使の助けにより、「父」ヨセフが母子を守り続けるのです(マタイ2,13以下)。――イエスは武力ではなく、むしろ己の無力さを通して、神の力を発揮するメシアです。神はそのような仕方で、私たちと「共に」あります。

第三に、マタイ福音書のイエス誕生物語の具体的な造形に、部分的に影響を与えたと思われるモーセ伝説をご紹介します。イスラエルの民族伝承にあって解放者の誕生とは、何よりもまずモーセの誕生を意味しました。出エジプト記は、イスラエル民族の先祖がエジプトで奴隷であったときに王ファラオから加えられた最大の苦難、すなわち男の赤ちゃんは殺せという命令の只中で、解放者モーセが奇跡的に誕生したさまを物語ります(出1,15以下)。そのことを再話したユダヤ教説話を、紀元1世紀のユダヤ人歴史家フラヴィウス・ヨセフスが伝えています。少し長くなりますが、以下に引用します(ヨセフス『ユダヤ古代誌』II,210-216 秦剛平訳)

ヘブル人の貴族の出であるアムラムは、次代を継ぐ若者がいなくなる結果、イスラエルの民族全体が絶滅するのではないかと心配し、また個人的には、自分の妻がそのとき妊娠中だったので、どうして良いのか分からずまったく途方に暮れていた。そこで彼は神に祈願し・・・。彼を不憫に思った神は彼の願いに動かされて、眠っている彼に現れ、これから起ころうとすることに絶望しないように励まされた後、こう告げられた。・・・「その子の出生にエジプト人が恐怖を感じ、そのためイスラエル人から生まれてくる子はふ人残らず殺害するような命令まで出させたのは、じつはお前が産む子なのだ。しかしその子は、彼を殺そうと監視している人々の目を逃れ、驚くべきしかたで育て上げられ、ヘブル人の種族をエジプト人の束縛から解放し、その名は全世界が続くかぎり、ヘブル人のあいだばかりではなく外国人のあいだでも忘れられないものになる」。

マタイ福音書のイエス誕生物語を造形した人々と、モーセ誕生伝説を語り継いだ人々が、同じ文化圏に生きた人たちであることがよく分かります。二つの物語に共通しているのは、神がその民を抑圧者たちの圧制から救うというモチーフです。抑圧者とは、モーセ伝説ではもちろんエジプトですが、イエス伝説においてそれはローマ帝国のことです。――この世界で小さくされた者たちに、神は驚くべき仕方で解放をもたらす。そのような仕方で、神は私たちと「共に」おられます。

V

今週の初め、私の祖母が97歳で天に召されました。葬儀のために、私は今日まで帰省していました。祖母は17歳で洗礼を受け、死ぬまで私の母教会でクリスチャンとして生きました。讃美歌や童謡が好きで明るい性格でしたが、最初の子どもである長男を10ヶ月で失うという辛い経験をしています。代々墓の墓石に知らない名前があるのを見つけた私に、「育たなかった」と短い言葉で教えてくれたことがあります。戦時中のことでした。

また嫁ぎ先が農家でしたので、彼女はずっと畑や田圃で働きました。その重労働の中で二人の息子を育て、若い頃は毎週土曜日、近所の中高生や若者たちを招いて「学生会」を開くために家庭を解放しました。また教会に奉仕にやってくる神学生たちを、とても可愛がったそうです。

まったくの田舎で80年間、ただキリスト者として生きた祖母ですので、神学とか聖書学とか難しいことは何も知りませんでした。ただイエスさまを信じ、神さまを讃えながら生きたと思います。そのような人々のもとに、この聖夜、神の子イエスは生まれるのだと思います――「神は我々と共に」という約束の成就として。

皆さんに、メリー・クリスマス!



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