今日のテキストの冒頭で、使徒パウロは、「主において常に喜びなさい」(4節)と勧めている。「主」とは、言うまでもなくイエス・キリストのことである。常にイエスのことを心に留め、彼の生き方に倣って生活しなさい。そのことが、あなたがたに深い喜びを与える。そういう意味をこめて、パウロはこの言葉を記したのであろう。
しかし、主イエスのことを心に留めて生きることが、何故「喜び」なのだろうか?
イエスには、自らを誇り・高ぶる傲慢さが全く無いからだ。彼は、自分を無にしてすべての人の僕となり、「仕えられるためではなく仕えるために」(マルコ10章45節)その生涯を捧げた。これは、この世の政治的権力者や軍事指導者、あるいはウォール街に群がる投資家には全く見られない特質である。いや、しばしば私たち自身の胸にも、このような自己中心的な気持ち・傲慢なエゴイズムが黒々と巣食っている。それが「格差社会」を生み出す。そして、こうした競争社会の中では、私たちの心は休まることがない。
だが、イエスのように自己中心的な傲慢さから全く自由に生きた方が、この世界に現れた。このことを思うだけで、私たちの心は喜びで満たされる。だから、パウロは「主において常に喜びなさい」と言ったのである。
17世紀ドイツの詩人パウル・ゲルハルトは、「まぶねのかたえにわれはたちて」という美しい詩を作った。貧しい馬小屋で生まれ、ぼろ布にくるまって飼い葉桶の中に寝かされていた幼子イエスのことを思いながら書いた詩である。その中に「きらめく明か星 / うまやに照り / わびしき乾草 / まぶねに散る / こがねのゆりかご / 錦のうぶぎぞ / きみにふさわしきを」というところがある(讃美歌256番4節)。
イエスは、この世の「最も貧しい人々」、「飢えている人々」、「泣いている人々」と同じになった! パウル・ゲルハルトは、このことに対する感謝と喜びを歌ったのだ。それは、さらにこう続く。「この世の栄えを / 望みまさず / われらに代わりて / 悩みたもう / とうとき貧しさ / 知りえしわが身は / いかにこたえまつらん」(5節)。
さて、このようにして生まれた幼子イエスは、直ぐ両親に連れられてエジプトへ逃げなければならなかった。それは、ヘロデ大王が自らの権力の座を守るために、「ベツレヘムとその周辺一帯にいた二歳以下の男の子を、一人残らず殺せ」(マタイ2章16節)と命じたからである。このために、イエスは生まれるや否や家族ぐるみで「難民」となった。つまり、世間から「憎まれ・追い出され・ののしられ・汚名を着せられて」苦しむ人々と同じになったのである。
このように生きたイエスの姿を、パウロは『フィリピの信徒への手紙』2章に簡潔にまとめている。後で洗礼式の際にも読むことにしているが、その主な部分をここで朗読したい。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。人間の姿で現れ、へりくだって、死に至るまで、それも十字架の死に至るまで従順でした」(6-8節)。
このような方が世界史の中に現れたということは、それだけで既に奇跡的であり、私たちにとって実に大きな喜びである。だから、「主において常に喜びなさい」。
最後に、5節後半の「主はすぐ近くにおられます」という言葉に注目したい。自分を無にしてすべての人の僕となって下さったイエス。自己中心的な傲慢さから全く自由に生きることのできたイエス。貧しい人々・飢えている人々・泣いている人々と同じになって下さったイエス。世間から憎まれ・追い出され・ののしられ・汚名を着せられて苦しむ人々と同じになって下さったイエス。そして、そのような生涯を通じて「神は愛である」ということを教えて下さった方が、この世の真っ只中に生まれた。その主イエスが、私たちのすぐ近くにおられる。私たちがクリスマスを祝うのは、正にこのことのためである。