2009.12.13

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「来るべき方」

廣石 望

イザヤ書42,1-9;マタイ福音書11,2-15

I

今年を代表する漢字が「新」に決まったそうです。政権交代による民主党政権の誕生や、新型インフルエンザの流行、裁判員裁判の導入などを念頭においたものです。米国オバマ大統領が行った核兵器廃絶の提唱、あるいは地球温暖化ガス排出削減の試みなども、これに加えてよいかもしれません。

他方で、キリストの到来を待つアドヴェントの喜びは、世間一般にいう「新しさ」とは、どこか違うように感じます。この季節になると、私は来年用の新しい手帳を購入して、12月以降の予定を書き移します。しかし1年たてば、その手帳もやがて古いものになってゆく。そうした一過性の新しさと、キリストの到来はどこが違うのでしょうか?

それにしても、いったいどうして私たちは毎年イエス・キリストの到来を律儀に祝うのでしょうか? 彼は過去に一回だけ、この世に来たのに。キリストの到来を待ち、それを祝うことは、私たちが今年経験した喜びや失望、そして来るべき新しい年への期待に、どのような新しい位相をもたらすのでしょう? 私たちにとって「来るべき者」とは何者なのでしょうか?

 

II

 「来るべき方は、あなたでしょうか?」というヨハネの問いかけに対して、イエスは、こう答えます(5節)。

目の見えない人は見え、足の不自由な人は歩き、
らい病を患っている人は清くなり、耳の聞こえない人は聞こえ、
死者は生き返り、貧しい人は福音を告げ知らされている。

 この発言は、イエスの活動――病気の治癒や悪霊祓い、また死者の蘇生など――を指しています。同時にこの言葉は、旧約聖書のいろいろな箇所の混合引用であると言われています。しかし、どこか特定の箇所にぴたりと一致するというわけでもありません。内容的には、むしろ当時のメシア期待の表現です。例えば、死海文書の中に、次のようなメシア期待に関する断片があります(4Q521断片2、欄iiと断片4)。

(1)天と地は彼のメシアに聞くであろう。(2)そしてその中にあるすべてのものは、聖なる戒めから逸れないであろう。(3)主を求める者たちよ、彼に仕えることの中で勇気を出しなさい。〔空欄〕(4)君たちは次のことの中に主を見出すのではないか、心の中で希望をもつ者たちすべては。(5)すなわち主が敬虔な者に配慮し、義人たちを名で呼ぶこと。(6)貧者/低くされた者たちの上にその霊を漂わせ、彼が忠実な者たちをその力で強めること。(7)彼が敬虔な者たちを嘉すること、永遠の支配の玉座にあって。(8)〔すなわち〕縛られている者たちを解き、盲目の(目を)開き、屈められた者たちを起こすこと〔の中に〕(詩146,7-8参照)。(9)そして常に、私は希望を持つ者たちの側にいよう、彼の群れの中に。(10)そしてよき行いの実は、その人に遅れて来ることはないだろう。(?)(11)そして、まだなかったような栄光に満ちたことを主はなさるだろう、彼が言ったとおり。(12)そのとき彼は、傷だらけの人々を癒す。彼は死者に命を与える。貧者(/低くされた者たち)に彼は福音を告げ、(13)身分の低い者たちを満ち足らせ、見棄てられた者たちを導き、飢える者たちを豊かになさる。

 ここでメシアに期待されていることは、私たちの箇所のイエスの言葉と同じこと、また例えばマリアの賛歌(ルカ1,47以下)と同じように、弱者の尊厳の回復です。

先日、あるテレビ番組で、ILO(国際労働機関)の職員の方が、世界の児童労働の問題について説明していました。生まれ育つ貧困な環境、あるいは例えば親の借金などが理由で、決して少なくない数の子どもたちが、基本的な学校教育を受けることもできないまま、工場や農作地で、じつに危険な低賃金の単純労働を強いられ、あるいは家政婦として酷使されており、事故や病気と隣り合わせで暮しているというのです。このような状況からの解放は、核兵器廃絶や地球温暖化防止と同じくらい、あるいはそれ以上に重要です。

 

III

「来るべき方はあなたですか。それとも別の方を待たねばなりませんか?」というヨハネの問いかけは、真の解放者は誰かという問いです。

そのヨハネ自身は「荒野で叫ぶ声」、来るべき者の「道備えをする者」という自覚、つまり最後の審判に先立って「悔い改め」を民族に要求する最後の預言者という自覚をもっていたと思われます。ヨハネが期待した「来るべき者」は、神ないし審判者としての人の子でした。ですからそのヨハネが、かつての弟子であるイエスに向かって、「あなたが来るべき者か?」という質問をしたかどうか、やや疑わしい気がします。ヨハネの問いかけは、イエスの弟子集団が、ヨハネ教団と競合関係にあるところから生まれた文学上の設定であるかもしれません。

それでもイエスの返答には、ひとつの特徴があります。イエスは「そうだ、私が来るべき者だ」とは言わず、彼の身体を通して生じていることを指差すからです。「私に躓かない人は幸いである」(6節)という言葉も、人ではなく、その人を通して生じていることがらを見るように、という意味かも知れません。人はその人の身分や出身によらず、その人が何を言い、何がその人を通してなされているかによって評価されるべきなのです。「あいつはオレの弟子だった」ということに躓かず、「私と仲間たちを介して、何がなされているか」に注目すべきなのです。

 

IV

 ではイエスは、かつての師である洗礼者ヨハネを、どう見ていたのでしょうか?

 「あなたがたは、何を見に荒れ野へ行ったのか」で始まる言葉(7-9節)は、ヨハネの活動全体を、ガリラヤの領主ヘロデ・アンティパスとの対比の中にとらえています。「風にそよぐ葦」とはアンティパスが鋳造させた貨幣のエンブレムであるらしい。貨幣とは、誰が支配者であるかを領民に誇示するために最も有効な手段でした。はたせるかな「しなやかな服を着た人」「王宮」といった言葉もアンティパスを指しています。ヨハネが「牢」にいたという記述をあわせると、これらの言葉はヨハネとアンティパスの正面衝突を、またヨハネに及ぶ虐殺の運命を暗示しているのでしょう。このヨハネはイエスにとって、最後にして最大の預言者、いいえ「預言者以上の者」でした。

 その後に続く、「見よ、わたしはあなたより先に使者を遣わし、あなたの前に道を準備させよう」(10節)という言葉は、旧約聖書のマラキ書(3,1)の引用です。現在の文脈では「わたし」は神、「あなた」はイエス、「使者」が洗礼者ヨハネを指します。同じマラキ書には、「見よ、私は大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ3,23)という言葉があります。私たちの段落の最後に、洗礼者ヨハネは「現れるはずのエリヤである」(14節)という発言がありますね。つまり洗礼者ヨハネはイエスの先駆者であり、その再来のエリヤとしての役割が預言されていたという原始キリスト教の理解がここにあります。

 これに対して11-13節の言葉には、イエス自身のヨハネ理解が、よりはっきり表れています。それによるとヨハネは「およそ女から生まれた者のうち」、つまりあらゆる人間の中で最も偉大なのですが、「神の国」(マタイはこれを「天の国」と言い換えます)の中では、あらゆる者がそのヨハネよりも偉大です(11節)。つまり「神の国」の始まりは、まったく新しい時の始まりであり、ヨハネはそれ以前の時に属するというわけです。このそれ以前の時には、ヨハネと並んで「すべての預言者と律法」が属しています(13節)。

 ヨハネは荒れ野にいましたが、イエスはヨハネから独立した後は、ガリラヤの村々を行きめぐりました。ヨハネは最後の審判における罪の赦しを得させる儀礼として、人々に洗礼を施しましたが、イエスはもはや誰にも洗礼をしません。ヨハネは奇跡を行いませんでしたが、イエスは病人の病気を癒し、精神障がい者から悪霊を追い祓い、死者を蘇生させました。ヨハネは禁欲的な生活をしていましたが、イエスは祭儀的に不浄とされた人々と交流し、彼らといっしょに食事をしました。これがイエスによる「神の国」の実践です。

イエスがヨハネの影響圏から離脱したのは、この「神の国」のリアリティ、つまり救いをもたらす神の力、穢れの只中に清さを生み出す力が彼に開けたからなのでしょう。すると神の国を「激しく襲う者たち」(12節)とは、病いや差別を引き起こす主体であるサタンとその配下の悪霊たちのことであろうと思います。イエスは「神の国」の実践の中で、悪霊どもと戦っているのです。

 

V

「耳ある者は聞きなさい」(15節)――キリストの到来がもたらす「新しさ」はどこにあるか、なぜ私たちは主の到来を毎年祝うのか、と最初に問いました。それはイエス・キリストとともに到来した「神の国」が、私たちを新しい存在に、質的に新しい時間を生きる存在に私たちを作りかえるからです。

小さなエピソードをお話します。私の知っている学生さんに、家庭にいろいろと問題があり、本人もさまざまな失望を抱えていて、なかなか学校に来ることができず、単位の取得も順調でない方がいます。今の時代に、自尊感情をもつことはなかなか難しいことだと感じます。その学生さんは、学外のボランティア活動を含む科目を履修しました。科目担当の先生は、欠席の多い彼女の課外活動参加はムリだろうと判断されたのですが、彼女は参加しました。そして、そこで出会った他大学の学生、自分よりも大きな困難を抱えながらも頑張っている学生を姿に接して、とても励まされたようなのです。科目担当の先生も、驚きながら嬉しそうにしておられました。後日、チャペルで彼女とすれ違ったのですが、すばらしい笑顔、まるで「無敵」の微笑みでした。これが新しい時の始まりであってほしいと思います。その人の過去でなく、彼女を通して今生じつつあることに注目したいのです。

私たちが毎年、主イエス・キリストの到来を、毎週ロウソクに火をともしながら祈りを込めて待ち続け、その誕生を喜び祝うのもそのためです。



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