今日から待降節(アドヴェント)に入る。「アドヴェント」とは、ラテン語で「到来」を意味する。主イエスがこの世界に生まれたということ、つまり、この世に「到来」されたということを、毎年、教会暦の一年の初めに、改めて心に刻むのである。イエスの到来。これは、我々にとってどんなに大きな意味を持っていることか!
ところで、我々の教会では10年以上も前から、水曜日の「祈り会」で旧約聖書を学んでいる。イザヤ書から始めてすべての預言書を毎週1章ずつ読み進み、今、詩編の中ほどにさしかかっている。人生について、信仰について、学ぶことは実に多い。しかし、時々、閉口することもある。たとえば、「敵に対する憎悪」や「報復」がむき出しに強調されているのに出遭ったときである。先週の説教で取り上げたヨシュア記6章にも、凄まじい大量虐殺や略奪の記事があった。「選民イスラエルになら、こういうことも許される」という考え方で、ほとんど読むに耐えない。
旧約聖書には確かにこうした一面があり、それを読んだ後では、すべての暴力を否定し・徹底して愛を教えられたイエスのユニークさが一層際立つのである。
だが、旧約聖書に「暴力否定」や「愛」の思想が全然ないかと言えば、そんなことはない。荒れ野の中に湧き出る清冽な泉のように、旧約聖書の要所要所に、実に美しい言葉が出てくる。たとえば、イザヤ書2章4節の「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」。あるいは、詩編46編9-10節にも「主の成し遂げられることを仰ぎ見よう。主はこの地を圧倒される。地の果てまで、戦いを断ち、弓を砕き槍を折り、盾を焼き払われる」と言われている。
また、福音書を読むと、イエスご自身が旧約聖書から沢山の「善い言葉」を引き出しておられる。中でも、申命記6章5節の「心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」と、レビ記19章18節の「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という二つの戒めを挙げて、こう言われた。「律法全体と預言者(=旧約聖書)は、この二つの掟に基づいている」(マタイ22章37-40節)。これなどはその典型であろう。
イエスは、旧約聖書の膨大な数の言葉の中からただ「善い言葉」だけを引き出し、ことに「愛」と「暴力否定」を教える言葉を選び出された。そして、その清らかな泉から命の水を汲み、人々の渇きを癒されたのである。それだけではない。彼は十字架上で御自分の血を流し、「愛」のために命を賭けられた。
そのような方がこの世に「到来」した。敵に対する「憎悪」や「報復」が燃え盛っていた旧約時代に終わりを告げるように、敵をも愛したイエスが到来した。我々がアドヴェントを祝うのはそのためである。
アドヴェントの最初の主日には、しばしばマタイ福音書21章5節の言葉が読まれる。「シオンの娘に告げよ。『見よ、お前の王がお前のところにおいでになる、柔和な方で、ろばに乗り、荷を負うろばの子、子ろばに乗って』」。イエスはこの時、自らの命を捧げるためにエルサレムに入ろうとしておられたのだが、彼は、「柔和な方で、ろばに乗って」おられたという。
「柔和」とは、『広辞苑』によれば「性質・態度が優しくおとなしいこと」だというが、マタイが言う「柔和」は単にそれだけの意味ではない。このところは旧約聖書・ゼカリヤ書9章9節の引用であるから、もとの言葉に注目しよう。マタイとはやや表現が違っていて、「娘シオンよ、大いに踊れ。娘エルサレムよ、歓呼の声を上げよ。見よ、あなたの王が来る。彼は神に従い、勝利を与えられた者、高ぶることなく、ろばに乗ってくる、雌ろばの子であるろばに乗って」となっている。
つまり、「柔和」とは、自らを低くして神に従うこと・高ぶらないことである。従って、どんな場合も人に対して暴力的にならない。私のかつての恩師アイヒホルツは「柔和」を「力ずくでない」と訳したが、これは正しいであろう。だからイエスは、権力者や将軍たちが好んで跨る勇ましい軍馬には乗られなかった。むしろ、戦争では全く「役たたず」の小さなロバに乗ってトコトコとやって来られた。
しかも、ゼカリヤ書9章には続きがある。「わたし(=主なる神)はエフライムから戦車を、エルサレムから軍馬を絶つ。戦いの弓は絶たれ、諸国の民に平和が告げられる。彼の支配は海から海へ、大河から地の果てにまで及ぶ」(10節)。
ここで預言者ゼカリヤは、「神は軍備をことごとく廃絶して、平和を告知する」と言う。神は、「海から海へ、大河から地の果てまで」、つまり、全世界に対して、このシャロームを約束された、というのである。「柔和」とは、この平和の約束を信じて武力に訴えるやり方を止めること、さらには、武力そのものを否定することにほかならない。この意味で、日本国憲法第9条はまことに聖書的だと言えるであろう。
イエスは馬小屋に生まれ、生まれるや否や難民となってエジプトに逃がれた。成人した後はガリラヤの最下層の民衆と共に生き、野の花・空の鳥のような慎ましい存在に共感し、「力ずくでない」生活を送られた。権力者の暴力によって苦しめられたことはあっても、自ら暴力を振るったことはない。「宮きよめ」(マタイ21章12節以下)は例外である。このような方が世界歴史の中に到来されたという事実! その重みを、我々は今、噛みしめたい。