2009.10.11

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「祈ることと正義を行うこと」

村上 伸

アモス書5,21-24 ; マタイ7,21-23

先週行われた「教会カンファレンス」は、準備委員の努力と出席者の積極的な参加によって充実した会となった。転機を迎えようとしている私たちの教会の将来のために、まことに良い第一歩であったと思う。心から感謝したい。

さて、9月6日の説教(「教会だより・カンファレンス準備号」に再録)の中で、私はボンヘッファーの「われわれがキリスト者であるということは、今日ではただ二つのことにおいてのみ成り立つだろう。すなわち、祈ることと、人々の間で正義を行うことだ」という言葉を引用した。私たちの教会にとって、これはまことに簡潔で美しい目標である。今日は、改めてこの言葉について考えたい。

先ず、「祈ること」について、イエスはどのように教えられただろうか?

マタイ福音書6章には、「祈るとき、あなたは偽善者のようであってはならない。偽善者たちは、人に見てもらおうと、会堂や大通りの角に立って祈りたがる」5節)と言われている。「人に見てもらおうとして自分をひけらかす」のは偽善的であって本当の祈りとは言えない、というのだ。そして、その偽善的な祈りの実例は、ルカ福音書18章に示される。「ファリサイ派の人は立って、心の中でこのように祈った。『神様、わたしはほかの人たちのように、奪い取る者、不正な者、姦通を犯す者でなく、また、この徴税人のような者でもないことを感謝します』」(11節) 。

その正反対の例として挙げられたのが、徴税人の祈りである。「ところが、徴税人は遠くに立って、目を天に上げようともせず、胸を打ちながら言った。『神様、罪人のわたしを憐れんでください』」(13節)。

イエスは、「[神に]義とされて家に帰ったのは、この人であって、あのファリサイ派の人ではない」(14節)と言われた。自分を飾ったりひけらかしたりせず、ありのままの自分をさらけ出し、ただ一筋に神の憐れみを求める。これが祈りである。ルターも言っている。「たとえ言葉にもならない呻きでしかない祈りでも、天に昇り、高らかに鳴り響き、神の耳に達する」と。

だからイエスは、「あなたが祈るときは、奥まった自分の部屋に入って戸を閉め、隠れたところにおられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6章6節) と言って、世間の目を気にすることを禁じたのである。また、「祈るときは、異邦人のようにくどくどと述べてはならない」マタイ6章7節)とも言われた。「言葉数が多ければ、聞き入れられる」(7節)と思うのは見当違いである。

こう述べた後で、イエスは弟子たちに「主の祈り」マタイ6章9-13節)を教えられた。これこそ、私たちの「祈りの模範」だと言わなければならない。

今日は、この「主の祈り」についてこれ以上詳しく述べることはできないが、最も大事なことだけは言っておきたい。前半は、要するに「神の支配」の到来を願う祈りだ。日本語では「御名」・「御国」・「御心」という風に「御」という字の陰に隠れているが、英語やドイツ語では、はっきり「あなた(神)の名」・「あなた(神)の国」・「あなた(神)の意志」となっている。私たちは、何よりも先にそのことを祈り求めねばならない。

これに対して、後半は「わたしたちに必要な糧(パン)を今日与えてください」・「わたしたちの負い目を赦してください」・「わたしたちを悪い者から救ってください」という祈りである。この「第一人称複数」が重要である。つまり、「自分一人が幸せになればそれで良い」というのではない。「自分も周りの皆も、すべての人が共に神の祝福に与れるように」と、人間社会の真の在り方を祈り求めるのだ。イエスは、私たちの祈りにはこの二つの要素がなければならないということを教えられたのである。

そして、この二つは別々のことではなく、結局は一つなのである。神の真実の支配が来るようにと祈ることは、人間の社会が正しく秩序づけられ、正義と公平が行われるように祈るということにほかならない。

言うまでもなく、どの宗教にも「祈り」は不可欠の要素として存在する。だが、多くの場合、それは人間の自己中心的な願いを充足させて欲しいという願いである。稲荷神社では「商売繁盛」を祈り、天満宮では「入試合格」を祈り、水天宮では「安産」を祈る。戦時中は、八幡宮で「戦勝」を祈願した。こういう場合、何よりも先に考えられているのは自分自身のこと、あるいは、せいぜい自分の家族・自分の国のことだ。もちろん、他の人たちのことを考えて、「無病息災」や、「あらゆる災難から免れるように」と祈ることもある。しかし、それすらも自分勝手な祈りになり易い。

だが、「主の祈り」は違う。ルターが、「主の祈りにおいては、我々は自らに逆らって祈る」と言ったように、そこでは先ず「神の御心」がなされるように祈り、そして、「すべての人が共に」神の祝福に与れるように祈るのである。ボンヘッファーの「祈ることと、人々の間で正義を行うこと」という言葉にも、このニュアンスがある。

最後に、これと関連して今日の礼拝のために私が選んだ二つの聖句、アモス書5章21-23節と、マタイ福音書7章21-23節について一言述べたい。

預言者アモスは、「わたしはお前たちの祭を憎み、退ける」(21節)と言った。「祭」とか「祭の献げ物の香り」というのは、広い意味で「祈り」のことであろう。だが、どんなに立派な祈りが捧げられても、「正義を洪水のように、恵みの御業を大河のように、尽きることなく流れさせる」(24節)という行為がなければ、「騒がしい歌」(23節)に過ぎず、とアモスは言う。マタイが、「わたしに向かって、『主よ、主よ』と言う者が皆、天の国に入るわけではない。わたしの天の父の御心を行う者だけが入る」(7章21節)と言ったのも同じ趣旨であろう。このことを心に刻みたい。



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