2009.10.4

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「神の家族」

村上 伸

アモス書5,21-24;エフェソ2,14-22

今日は「世界聖餐日」で、私たちは世界の諸教会と共に聖餐式を守る。だが同時に、今日の礼拝は私たちの教会の「カンファレンス」(一日修養会)の開会礼拝も兼ねている。このことには、後に触れるように、深い意味があるであろう。

さて、今年のカンファレンスの主題は、「絆 ―― 関わりを考える」である。私も、このテーマを念頭においてこの説教を準備した。それ故、午後のプログラムに参加できない方も、この開会礼拝に出席することによって私たちの教会の課題を共に担っていることになるのである。

このテーマについて、先週発行された「たより」に、4人の方々が行き届いた解説あるいは発題を書かれた。先ず斉藤和夫さんによる簡潔で分かり易い導入がある。次に神尾昭二さんが「時間の軸」という観点から私たちの教会の歴史を振り返ると共に、本年度の「宣教基本方針」について書かれた。土田潤子さんは、「社会の軸」という観点から、8月に行われた「もみの木」(おはなし会)の実践報告を書くと共に、「<どうぞのいす>を教会の外に置く」という意欲的な社会との関わりを提唱された。そして、最後に廣石副牧師が「キリストの軸」に沿って、「キリストが私たちの絆になられた」ことを明らかにし、それとの関連で「信仰と希望と愛」の意味について、甚だ示唆に富んだ文章を書いておられる。今日の午後なされる話し合いは、これらの発題に触発されて内容の豊かなものになるに違いない。

ここで、今日の説教テキストに目を向けたい。使徒パウロの名によって書かれた『エフェソの信徒への手紙』2章11節以下である。

11節に、「あなたがたは以前には肉によれば異邦人であり、いわゆる手による割礼を身に受けている人々からは、割礼のない者と呼ばれていた」とある。ここで「あなたがた」と言われているのは、エフェソ教会の信徒たちのことだが、彼らの多くはユダヤ人ではなかった。これら「非ユダヤ人」のことを、ユダヤ人は普通「無割礼の者たち」、また「異邦人」と呼んで軽蔑していた。この手紙を書いた人が、というのではない。当時のユダヤ人は一般にこういう態度で、異邦人とは関わりを持とうとしなかった。異邦人は、「キリストとかかわりなく、イスラエルの民に属さず、約束を含む契約と関係なく、この世の中で希望を持たず、神を知らずに生きている」(12節)と考えていたからである。ユダヤ人と異邦人の間には、いかなる絆・いかなる関わりもないと言われてきたし、事実、エルサレム神殿の庭には「隔ての壁」(14節)と言われる障壁があって、異邦人がそこから先に入ることは厳しく禁じられていた。

このように何の関わりもないと考えられていた「二つのもの」(14節)の間に、全く新しい関わりが生まれた。それを可能にしたのはキリストである。これが今日の箇所の中心的なメッセージである。「キリストはおいでになり、遠く離れているあなたがたにも、また、近くにいる人々にも、平和の福音を告げ知らせられました」(17節)とある通りだ。

これは、キリストが平和の福音によって、遠く離れていた異邦人にも神の祝福に与る機会を与えられたという意味であるが、単にそれだけではない。「近くにいる人々」、つまり、「神の選民」であると自惚れ・高ぶっていたユダヤ人の差別的な考えを打ち砕き、真の平和の道を示して彼らを悔い改めに導いた、ということでもある。「キリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現した」(15節後半)というのは、そういう意味であろう。

それに続けて、「キリストは・・・十字架によって敵意を滅ぼされた」(16節)と言われている。これはどういう意味だろうか?

どの福音書にも詳しく記されているように、イエス・キリストは宗教裁判にかけられ・死刑判決を宣告され・十字架につけられて殺された。こういうことをやったのは律法学者たちであった。これら律法学者たちは、「規則と戒律ずくめの律法」を何よりも重んじ、それに従わない人々を激しく憎み、敵視した人々である。十字架は、こうした「律法原理主義」がもたらすものは敵意・憎悪・差別以外の何物でもないということを実証する出来事であった。そして、キリストは、この恥と苦しみを御自分の身に負うことによって、律法が既に破綻しているという事実を示されたのである。「御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄された」(14節後半-15節前半)と言われるのは、そのことである。

こうして、キリストにおいて、「一人の新しい人」(15節)が生まれた。キリストという強い絆に結ばれて、互いに愛し合い、共に生きて行く「新しい人」である。これが教会である。「新しい人」とされた教会は、私たちが今日、世界中の教会や信徒たちと共に聖餐式を守っていることにも現れているように、人種や文化や言葉といったすべての障壁を乗り越えた存在である。「もはや、外国人でも寄留者でもなく、聖なる民に属する者、神の家族である」(19節)。

さらに、この教会は、「建物」(21節)にたとえられている。教会学校の子供たちが今朝歌った歌に、"Church is not a building"というのがあったが、エフェソ書が言う「建物」(オイコドメー)は、建造物というよりはむしろ「家を建てる」(オイコス+デモー)という意味である。「使徒や預言者という土台の上に」(20節)、キリストを「かなめ石」として、「組み合わされて成長し、主における聖なる神殿となる」(21節)。そして、「あなたがたも共に建てられ、霊の働きによって神の住まいとなる」(22節)。このイメージほど、私たちの教会にとって相応しいものはないのではないか。



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