2009.8.16

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「もはや戦うことを学ばない」

村上 伸

イザヤ書2,1-5;マタイ福音書26,47-56

昨日、私たちは64回目の敗戦記念日を迎えた。そこで今朝は、今日の礼拝のために最も適切と思われるテキスト、旧約聖書・イザヤ書2章1-5節に基づいて説教したい。預言者イザヤも、ある意味では敗戦の経験者だったからである。

紀元前701年、アッシリヤの王センナケリブは大軍を率いてユダ王国を攻め、エルサレムを包囲してユダの王ヒゼキヤに降伏を勧告した。ヒゼキヤは大いに恐れてイザヤに助言を求めた。列王記下19章によると、イザヤはこう答えたという。「主なる神はこう言われる。あなたは、アッシリヤの王の従者たちがわたしを冒涜する言葉を聞いても、恐れてはならない。見よ、わたしは彼の中に霊を送り、彼がうわさを聞いて自分の地に引き返すようにする」(6-7節)。そして、この預言の通りになる。「その夜、主の御使いが現れ、アッシリヤの陣営で十八万五千人を撃った」(同35節)。これにショックを受けたセンナケリブ王は、直ちに兵を返して自分の国に帰った。今日の箇所イザヤ書2章の冒頭に、「アモツの子イザヤが、ユダとエルサレムについて幻に見たこと」(1節)とあるのは、このことを暗示しているであろう。

センナケリブ王は、この時は故国に逃げ帰った。だが、それは一時のことで、大局的に見てアッシリヤが超大国であることに変わりはなかった。メソポタミアから地中海に至るまでの広大な領域で、アッシリヤの覇権は揺るぎないものであった。後にローマ帝国の時代に、圧倒的な経済力・軍事力によって域内の平穏が保たれていることを、人は「ローマの平和」(パックス・ロマーナ)と呼んだが、紀元前8世紀は「アッシリヤの平和」の時代だったのである。

だが、イザヤは、この「アッシリヤの平和」が絶対的・永続的なものだとは見ていない。この預言者の偉大さは、それを超越した視点から歴史を見ていたことである。「終わりの日に、主の神殿の山は、山々の頭として堅く立ち、どの峰よりも高くそびえる」(2節)。この「主の神殿の山」とは、エルサレム神殿、あるいはそれが立っているシオンの山のことではない。どんなに壮麗な神殿でも「建築物」に過ぎず、それは、主イエスが「一つの石もここで崩されずに他の石の上に残ることはない」(マタイ24章2節)と言われたように、いつかは完全に崩壊する。

イザヤは、「すべてのことの上にあって歴史を支配される神の意志」を象徴的に「主の神殿の山」と言ったのであり、それは要するに「神の言葉」のことである。「草は枯れ、花はしぼむが、わたしたちの神の言葉はとこしえに立つ」(イザヤ40章8節)。この神の言葉は、世界史上のどんな大帝国よりも永続的な力・権威を持つ。そしてこの真理は、「終わりの日」に隈なく明らかにされる。そのとき、「多くの民が来て言う。『主はわたしたちに道を示される。わたしたちはその道を歩もう』と」(2章3節)。

主が示される「道」。それはこの世の「道」を超越している。イザヤはその「主の道」をはっきり見た。それは、全く新しい道であった。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(4節)。

ところで、アッシリヤを滅ぼして次の覇権を握ったのはバビロニアである。その次にバビロニアに代わってペルシャが、ペルシャに代わってシリヤが、シリヤに代わってローマがという風に、この世の覇権はめまぐるしく交替した。だが、この覇権争いの根本にある「道」は常に同じであった。すなわち、豊かな経済力によって強い軍隊を持つようになった国が、敵対する国を征服して世界の支配者となるのである。

そのために少しでも多くの敵を効果的に殺傷できる兵器が開発された。イザヤの時代は、スピードの出る大きな馬と、それに曳かせた戦闘用馬車(戦車)、城を攻めるための特殊な櫓、石弓などであった。近代に入ると、高性能の爆薬、機関銃、鋼鉄で鎧われた戦車(タンク)、潜水艦、飛行機、毒ガスなどが使われた。そして、現代の主役はおぞましい「ABC兵器」に移っている。つまり、原子爆弾・水素爆弾などの大量破壊手段(A)、あたり嫌わず細菌をバラ撒く生物兵器(B)、そして、各種毒ガスのような化学兵器(C)だ。加えて、「クラスター爆弾」も登場した。

こういう兵器を使って近隣の国々を侵略し、容赦なく森に枯葉剤を撒き、田畑を踏みにじり、家々を焼き、なけなしの財産を奪い、女性を犯し、無数の民を殺す。こういう戦争も無料(タダ)ではできないから、「戦費を調達するために」自国の民からも無理やりに税金を搾り取らなければならない。これが、歴史上ほとんどすべての国々が、「当たり前」と考えてきた「道」であった。

日露戦争の時、旅順攻撃の最高司令官であった乃木希典は、
山川草木轉荒涼 サンセンソウモク ウタタコウリョウ 十里風腥新戦場 ジュウリ カゼ ナマグサシ シンセンジョウ 征馬不前人不語 セイバ ススマズ ヒト カタラズ 金州城外立斜陽 キンシュウ ジョウガイ シャヨウニタツ
という漢詩を詠んだ。戦争の道の行き着く果ては、累々たる屍と惨憺たる廃墟のみである。

このような戦争の「道」を、主なる神は決してお望みにならない。だから、それが永久になくなる時が必ず来る。こう預言したのがイザヤである。彼は、アッシリヤの脅威という「現実」を前にしても、それを恐れたり、その前に卑屈になったりせず、それらを超越する「いと高き神」の言葉を聞いた者として、威厳をもって語った。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」

敗戦記念日に当たって私たちがイザヤから学ぶのは、このことに他ならない。



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