今、ポール・ゴーギャンの絵が東京に来ている。その一つに、<私はどこから来たのか。私は何者か。私はどこへ行くのか>と題された作品がある。自分のルーツはどこにあるのか、そして、自分の行く末はどうなるのか? それを知らずに今を生きている自分。「私は何者か」。これは、誰もが一度は抱く問いであろう。
ボンヘッファーも獄中で、「私は何者か」という詩を書いた。「私は何者か? 彼らはよく私に言う、私が自分の獄房から平然と明るく、しっかりとした足取りで、領主がその館から出て来る時のように歩み出ると。/・・・私は何者か? 彼らは私にこうも言う、私が不幸の日々を、冷静に、微笑みつつ誇り高く、勝利に慣れた人のように耐えていると。/私は本当に、他の人々が言うような者なのか? それとも自分が知っているような者でしかないのか? 籠の中の鳥のように動揺し、憧れて病み、誰かに首を絞められた時のように息をしようともがき、色彩や花々や鳥の声を求めて飢え、渇いたようにやさしい言葉や人間的なぬくもりを求め・・・最も些細な無礼にも怒りにふるえ・・・疲れて、祈りや思索をする余力ももはやなく、くたびれ果ててみんなに別れを告げる用意をする」と書いた後、彼はこの詩をこう結んでいる。「私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものだ」。
私たちのことを一番良く知っているのは、私たち自身ではない。神であり、イエス・キリストである。「私が何者であれ、ああ神よ、あなたは私を知り給う。私はあなたのものだ」。これこそ、私たちの信仰の「かなめ」ともいうべき言葉ではないか。
今日の箇所で、イエスは弟子たちに対して「あなたがたは地の塩である」(13節)、「あなたがたは世の光である」(14節)と言われたが、これは、イエスがあなたがたをそのような者として知っておられる、ということである。弟子たちの自己認識・自己規定ではなく、イエスが知る弟子たちである。イエスはここで、弟子たちに対して、彼らがいかなる人間であるかということを告げておられるのである。
彼はこう言いたかったのではないか。「あなたがたは、神の国が近づいたという福音によって生かされている。あなた方自身がどのような能力や可能性を持っているか、それは問題ではない。ただ、神の国が近いという福音が、明け方の光のように、朝ごとにあなたがたを照らしている。あなたがたは『私は何者か?』と問うかもしれないが、あなたがたは要するにこの約束の光に照らされ、それによって生かされている人間なのだ」と。「あなたがたは地の塩である」・「あなたがたは世の光である」と言われたのは、そういう意味ではなかっただろうか。
それは、「あなたがたには優れた道徳的資質があるから物の腐敗を防ぎ、味をととのえる塩のような働きをすることができる」というほめ言葉ではない。また、「あなたがたにはこの暗い世界を照らす光としての力があり、人々の模範となる資格が備わっている」という高い評価でもない。あるいは、「あなたがたは、まだ地の塩・世の光とは言えないけれども、せいぜい頑張ってそうなれるように努力しなさい」という単純な努力目標でもないであろう。
そうではなく、「あなたがたは、善いところも悪いところも含めて、その存在のすべてをあげて神の国の福音の証人なのだ」ということである。その意味で、「あなたがたは地の塩・世の光である!」と主イエスは言われたのである。
「塩」については、おかしな話がある。死海の近くにはいくつかの池があって、乾季には乾上る。すると、池の底に白くこびりついた物が現れる。狡賢い商人がそれをこそぎ取って、「塩」と称して売る、というのである。だが、そんな粗悪品は「何の役にも立たず、外に投げ捨てられ、人々に踏みつけられるだけ」だ。地の塩であるはずの弟子たちから「塩気がなくなれば」(13節)、もう意味がない。本来の役割を果たすことができなくなった物は捨てられる。「世の光」についても同じであって、そのともし火を「升の下に置く」(15節)ようなことがあってはならない。
このことを痛恨の思いを込めて告白したのが、『第二次大戦下における日本基督教団の責任についての告白』であろう。その中に次のような一節がある。
「・・・『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい批判をなすべきでありました。/しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを内外にむかって声明いたしました。/まことにわたくしどもの祖国が罪を犯したとき、わたくしどもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました。心の深い痛みをもって、この罪を懺悔し、主のゆるしを願うとともに、世界の、ことにアジアの諸国、そこにある教会と兄弟姉妹、またわが国の同胞にこころからのゆるしを請う次第であります・・・」。
平和聖日に当たって、私たちの教会は、改めて「地の塩・世の光である」という自覚を新たにしたい。