2009.7.26

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「詐欺師の報い」

廣石 望

エレミヤ書6,10-30;ルカ福音書16,1-13

I

やっと衆議院が解散しました。前回の選挙以降の短期間のうちに、いったい何人の総理大臣が通り過ぎていったことでしょう。野党の側にも、政治献金の不正な帳簿処理をめぐる疑惑がとりざたされました。与党も野党も相手方のあげあしとりに躍起です。どちらが今度の選挙で勝とうと、長期の安定政権は期待できないように感じます。政権担当者がこんなにもくるくる変わる国の未来が心配です。

 

先週の新聞に、2009年の1-3月期で「企業内失業607万人」という見出しが躍っていました。このうち製造業が369万人。生産が早期に回復しなければ大規模な雇用調整につながる恐れがあるそうです。他方、年収が300万円未満の雇用者が、2007年には雇用者の過半数に達したそうです。これでは子どもを大学はおろか、高校にやるのも厳しいのではないでしょうか。「自己責任」どころの話ではありません。

 

そんな時代ですので、誰もが「損したくない!」と必死です。「私の金は誰にもやりたくない!」という無言の叫びが、巷に溢れているような気がします。他方、もはや自力でお金を稼ぐことのできない高齢者や障がい者は、どうすればよいでしょうか。火事や集中豪雨の被害に遭われるのはこうした方々です。私たちの社会が抱える大問題の一つが、富と安心の再分配にあることは間違いなさそうです。

 

II

イエスも、当時のあるていど似たような社会状況に反応しました。彼は父の家を棄てて、人々の喜捨に頼って生きる同志たちを募り、彼らをユダヤ人村落や町々にむけていっせいに派遣して、「神の王国は近づいた」と告知させました。派遣された弟子たちにはイエスと同じ権能、すなわち病気を治し、悪霊たちを追い祓う力が賦与されています。イエスは当時の社会構造から弾き飛ばされたユダヤ人民衆を、イスラエルの神の名によって再び集めることを目指したのです。彼らは、〈自分の権利を他人に分けてやる筋合いはない〉といきり立っている人々の心の扉を叩き続け、彼らから憐みの食べ物や一夜の宿りを恵んでもらいながら、〈私たちは新しい生き方をしよう〉と訴えたのでした。

 

この運動を母体として、復活節をへてやがて原始キリスト教が成立します。そしてその中にパウロのような、パレスティナ地域の外側で異邦人伝道を推進する人々が現れて、大きな反響を見出しました。その結果、原始キリスト教の主流は、パレスティナの放浪する説教者たちから、ヘレニズム諸地域の都市に定住する祭儀教団へと、その社会的な形態が徐々に移行してゆきます。今日のテキストである「不正な管理人」の譬えを伝えるルカ福音書の著者は、そのような時代の著述家です。彼が著した使徒言行録には、エルサレムの原始教会について、次のような記述があります。「信じた人々の群れは心も思いも一つにし、一人として持ち物を自分のものだと言う者はなく、すべてを共有していた」(使徒言行録4,32)。この箇所は、しばしばエルサレム教団の「原始共産制」と呼ばれます。しかしよく見ると私有財産は前提されています。その上で自分の財産に固執せず、自由な助け合いがなされたことが強調されます。これが教会人ルカの理想だったのでしょう。私たちも、こうした精神をほんのちょっぴりでいいから持ちたいものだと感じます。

 

III

さて、ルカ福音書の伝える「不正な管理人」の譬えには、聖書学用語で「適用句」と呼ばれる言葉が4つほどついています。そのいずれを見ても、不正な帳簿操作をした管理人をその主人が「ほめた」(8節前半)という風変わりな物語の結末を、何とか合理的に理解しようとして四苦八苦しているさまが伺われます。つまり4つの適用句は、イエスの歴史的な発話意図というより、むしろこの奇妙な譬えを伝承した人々の解釈の歴史を反映しています。

 

最初の適用句、「この世の子らは、自分の仲間に対して、光の子らよりも賢くふるまっている」(8節後半)は、管理人を「この世の子ら」に、他方で自分たちを「光の子ら」に分類し、前者の人々が「自分の仲間に対する」ふるまいの点で後者よりもずっと「賢い」、つまり自分たちにとうてい勝ち目はないと言います。管理人の「抜け目なのないやり方」(8節前半、原語は「賢く」)は、譬えの主人とは違って、実質的には否定されています。

 

これとは正反対に、「不正にまみれた富で友だちを作りなさい」で始まる第二の適用句(9節)は、譬えの主人が管理人のふるまいをほめたとあるのを受けて、管理人を肯定的に評価しています。財産のキリスト教的な有効活用という感じです。それにしても「金がなくなったとき、あなたがたは永遠の住まいに迎え入れてもらえる」とはどういう意味でしょう。〈この世で賄賂を贈りまくった人は、無一文になったとしてもあの世で極楽に行ける〉という意味だとしたら、これに心を込めて賛同する人は少ないように感じます。

 

第三の適用句は、管理人に求められる一般倫理として、「忠実」さのモチーフをもちだします(10節)。そして「不正にまみれた富について忠実でなければ、だれがあなたがたに本当に価値あるものを任せるだろうか」(11節)という発言は、譬えの管理人を、おそらく主人に「忠実でない」(原語は、8節で「不正な」と訳された「アディコス」)として否定的に評価しています。管理人は反面教師であり、彼を真似してはならないのです。

 

最後の第四適用句(13節)は、「富」の動機を第二および第三適用句から受けとりつつ、「二人の主人に(/神と富とに)仕えることはできない」ということで、第二適用句で提示されたキリスト教的な財産の有効活用の可能性を、原理的に否定しています。

 

――こうして仔細にながめると、4つの適応句はまるでばらばらです。ある学者は、4つの別々の説教案のようだと言いました。しかし福音書記者ルカとしては、全体として、こう言いたいのではないでしょうか。すなわち〈世俗の人々も自分の利益になると思えば、財産を他人のために賢く使うではないか。ならば君たちも、公平とはいえない社会構造を介して手に入れた財産であっても、それを貧者のために有効に用いるべきであり、神は必ずこれに報いて下さる。君たちの私有財産が小さくても、このことを忠実に行いなさい。決して財産を神のごとく崇めず、むしろ執着心を棄てなさい〉と。

 

IV

では、伝承されたイエスの譬えは、もともとどんな物語だったのでしょうか。

 

この譬えの社会的な背景にあるのは、おそらく大土地所有です。主人と管理人は、保護者(パトロン)と庇護民(クライアント)の関係にあります。主人は不在地主であるようです。パトロンとクライアントの関係は、法律関係を超えた仁義の関係です。主人のご機嫌を損ねることは、庇護者である管理人にとって身の破滅を意味します。じっさい「会計の報告を出しなさい」(2節)という主人の言葉は、続く「もう管理を任せておくわけにはいかない」という発言が示すように、〈お前は首だ〉という意味です。主人にとって重要なのは密告された内容の事実関係でなく、自分の主観的な判断だけです。管理人は、同情に値すべき犠牲者であるようです。

 

とはいえ管理人という職業は、いわゆるホワイトカラーです。彼は言います、「どうしようか。主人は私から管理の仕事を取り上げようとしている。土を掘る力もないし、物乞いをするのも恥ずかしい」(4節)。この階級意識丸出しのいじましい台詞を聞いて、イエスの譬えの聴衆はゲラゲラ笑ったに違いありません。

 

たいへん巧みなのは、このへなちょこ管理人が、一大決心をして〈悪者/ピカロ〉に変身するという筋書きです。窮鼠かえって猫を噛む。彼が貸し付け帳簿を不正に操作するその恩恵に浴するのは、おそらく小作農民たちです。オリーブオイル「100バトス」という負債は、ある学者によれば146本のオリーブから採取され、1000デナリオンに当たります。ほぼ3年分の日当といったところでしょうか。他方で小麦「100コロス」は42ヘクタールの畑の収穫で、2500デナリオン。約8年分の日当でしょうか。どちらもかなり高額です。これは単なる借金ではありません。むしろ構造的な多重債務です。小作農民は借金地獄の中でたんまり搾り取られて、食うや食わずで暮していたに違いありません。イエスの聴衆たちは、管理人が負債証書を操作するのを聞いて、今度はやんやの喝采を送ったのではないでしょうか。

 

それでも、もう一度驚かされるのは、最後に主人が騙されたと知った上で管理人のふるまいを「賢い」と誉めたという下りです(8節)。つまり主人は〈いっぱい食わされた権力者〉、他方の管理人は〈面目丸つぶれのピカロ〉です。――別の言い方をすれば、この物語に勝者はいません。

 

V

正義の主張は、しばしば権力と結びついています。そのモットーは「正義は勝つ」。総選挙も「民の声は天の声」と理解されています。勝った者が正義なのです。しかしイエスの「不正な管理人」の譬えでは、権力者は弱者に裏をかかれ、悪知恵のもちぬしは権力者から見抜かれた上でお褒めの言葉に与ります。正義と不正義の区別は、強者と弱者の区別に一致しません。

 

考えてみれば、これこそ〈いと小さき者たち〉が望んでいることなのではないでしょうか。イエスの「神の王国」のモラルは、誰一人として一人勝ちしない世界、権力者も出し抜かれ、悪知恵の働くホワイトカラーもバレバレの世界、つまり小さな者たちに対する圧力が結果的に多少なりとも軽減される、風通しのよい世界なのではないでしょうか。

 

「持てる者」の立場にあるルカ福音書の著者が、私たちは自分の財産に執着してはならないと教えたのも、このイエスの物語のパワーを異なる社会状況の中で自分なりに受け止めようとしたその証左であるように感じられます。さて、今度は私たちの番ですね。私たちはどうしましょうか。

 

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