2009.7.19

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「いつもあなたがたと共に」

村上 伸

エレミヤ書31,31-34;マタイ福音書28,16-20

マタイ福音書の第1章にはイエスの誕生の時のことが書いてある。天使がヨセフの夢に現れ、「見よ、おとめが身ごもって男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(23節)と告げたというのである。イザヤ書7章14節の引用だが、この「インマヌエル」というのは、「神は我々と共におられる」という意味である。

そして、今日のテキストである28章にも、「わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたと共にいる(20節)という復活のイエスの言葉が記されている。つまり、マタイ福音書は、最初と最後に「神は我々と共におられる(インマヌエル)」というメッセージを置き、それを「枠」にして全体を囲い込んでいるのである。

これは、「神は我々と共におられる」という真理こそマタイが最も力を込めて伝えようとした事柄であった、ということを意味している。そして、11人の弟子たちは、「ガリラヤに行き、イエスが指示しておられた山に登った」(16節)とき、そのことをはっきりと再確認したのであった。

さて、弟子たちが「ガリラヤに行った」ことには重要な意味がある。ガリラヤは、単に都エルサレムの文明から遠く隔たった「僻地」というだけではない。マタイ福音書4章によれば、「異邦人のガリラヤ」(15節)と呼ばれた異郷であり、貧しい人々や心身の病気に苦しむ人が多かったこともあって、「暗闇」とか「死の陰の地」と言われていた。正にそのような所で、イエスは活動を始めたのである。「イエスはガリラヤ中を回って、諸会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、また、民衆のありとあらゆる病気や患いをいやされた」(23節)。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ」(16節)という言葉もこのことを暗示している。

弟子たちがガリラヤに行って山に登ったのは、このイエスの生き様を再確認するためであった。そして、「山に登る」とは、世間の動向を気にしながら下界をウロウロするような生き方はやめて、ただ「上」を見上げて、すなわち「いと高き神」を仰いで、その霊を受けることだ。モーセもエリヤも、そしてイエス御自身もそうしたし、古来、日本でも、修行僧たちは比叡山などの高い山に登っている。

山に登った弟子たちは、そこで「イエスに会い、ひれ伏した」(17節)という。これは、イエスがガリラヤで苦しむ民衆と共に生きたこと・そのために自らも同じように苦しまれたこと・最後はご自分の命を捧げられたことを彼らが思い起こした、ということであろう。彼らは、イエスの生涯を思い起こして打たれ、ひれ伏したのだ。

ドストエフスキー『罪と罰』の一場面を思い起こす。自分勝手な考えから金貸しの老婆を殺して金を奪ったラスコーリニコフという青年が、貧窮のどん底にある家族を支えるために娼婦になったソーニャの前に「突然全身を屈めて、床の上に体をつけると、彼女の足に接吻した」。愕然とするソーニャに向かって彼は言う。「僕はお前に頭を下げたのじゃない。人類全体の苦しみの前に頭を下げたのだ」。

弟子たちがイエスの前で「ひれ伏した」のも、そういうことだろう。人類全体の苦しみを負って十字架につけられたイエスの苦しみに対して、彼らは頭を下げずにはいられなかった。こういう形で、心からの畏敬と感謝の気持ちを表わしたのだ。

その後で、イエスはこう言われた。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」(18節)。「権能」と訳されているギリシャ語は「エクスーシア」であるが、これは政治的・経済的な「権力」のことではない。では、どう理解すべきか?

パウロはこう言ったことがある。「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か」(ローマ8章35節)。それに続けて、彼はたたみ掛けるようにこう述べた。「わたしは確信しています。死も、命も、天使も、支配するものも、現在のものも、未来のものも、力あるものも、高い所にいるものも、低い所にいるものも、他のどんな被造物も、わたしたちの主キリスト・イエスによって示された神の愛から、わたしたちを引き離すことはできないのです」(同39節)。

「権能」(エクスーシア)とはこのことではないか。「わたしは天と地の一切の権能を授かっている」というイエスの言葉は、この点から理解されなければならない。

ところで、キリストを絵に描く場合、初期のキリスト教徒たちは象徴的に、「魚」「錨」「小羊」などの姿で描くことが多かった。人間の姿で描く場合も、せいぜい「善き羊飼い」程度であった。しかし、第4世紀にキリスト教がローマ帝国の国教として支配者的な位置についた頃から、「パントクラトール」、つまり「一切の権能を手中に収めた支配者」として描くやり方が広まったと言われる。黒い長髪と長い髭をたらした上半身の像で、右手は胸の前で祝福の仕草を示し、左手は宝石で飾られた福音書を持っている。福音書が開いていることもあり、その場合は、「わたしは世の光である」(ヨハネ8章12節)などという聖句が読み取れる。

だが、時代が経つに従ってキリスト像は次第に「政治的権力者」の姿に近づいて行った。頭には宝石をちりばめた金の王冠をいただき、手には権力の象徴である王笏と全世界を示す地球儀のようなものを持って、玉座に座っている。

だが、キリストを「世界で最高の権力を持つ支配者」として理解することは、福音書のイエスに相応しくない。彼は「仕えられるためではなく、仕えるために」(マルコ10章45節)来られたのであり、「自分を無にして、僕の身分になった」(フィリピ2章7節)方だということを、私たちは肝に銘じなければならない。



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