2009.6.28

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「大きな喜びが天に」

村上 伸

エゼキエル書34,11-16;ルカ福音書15,1-7

今日のたとえは、ルカ福音書5章27-32節を下敷きにしていると言われる。そこでは、状況がもう少し具体的に描写され、登場人物も「レビという徴税人」27節)と特定されている。この人が弟子としてイエスに招かれたときの話である。

ところで、「徴税人」というのは、ローマ帝国の手先になって税金取り立ての業務を代行する人々のことだ。貧しい人々からも容赦なく搾り取り、何がしかは自分の懐に入れるということもあったので、世間から忌み嫌われる存在であり、福音書では「罪人」の代表格である。レビは、その徴税人の一人であった。

このレビに、イエスは「わたしに従いなさい」27節)と声をかけたというのである。レビは、自分のような世間の嫌われ者でもイエスがまともに相手にして下さったということに感激したのだろう、直ちに「何もかも捨てて立ち上がり、イエスに従った」28節)。「そして、自分の家でイエスのために盛大な宴会を催した。そこには徴税人やほかの人々が大勢いて、一緒に席に着いていた」29節)。

一方、正義派の代表格であったファリサイ派の人々や律法学者たちはこれを見て、イエスの弟子たちに向かって「なぜ、あなたたちは、徴税人や罪人などと一緒に飲んだり食べたりするのか」30節)と、ぶつぶつ文句を言ったという。

この場面が、今日の箇所(15章1-7節)には殆んどそのまま出て来る。ファリサイ派の人々や律法学者たちがイエスのことで文句を言ったという点も同じである。その不平の言葉は、本田哲郎神父の訳によると、「こいつは道を踏み外した連中を迎え入れて、食事を一緒にしている」2節)。感じがよく出ているではないか。

 

私たちの社会には、ある人々の傍に行ったり、その人たちと親しく口を利いたりすると、それだけで非難されるという「差別」の現実がある。まして、一緒に飲んだり食べたりすると、「あいつは連中の仲間だ」と見られる。それが嫌だから、普通はその人たちを避けるのだが、イエスは違った。彼は、世間の非難を気にせず、その人たちの仲間として生きた。これが、今日の譬えの大事なポイントである。

『朝日新聞』夕刊に「ニッポン人脈記」という特集記事が連載されている。先週のテーマは、「反逆の時代に生きて」であった。60年代後半に東大を始めとして各地で起こった「大学紛争」の当事者たちを追い、その人たちの当時の心情、その後の生き方などを紹介した記事である。26日(金)は、学生たちの心情を理解しようとした教官たち、いわゆる「造反教官」についてだった。「教官のたまり場に行くと会話がピタッとやむ。『まだ大学を辞めないのか』と聞こえよがしに言う人もいた」。この記事を読んだせいもあるのだろう、私は40年も前に経験したある事を思い出した。

私は、1966年から68年までベルリンに留学していた。当時のドイツでも、既成社会に対する若者たちの「異議申し立て」が吹き荒れており、社会全体のヒリヒリするような空気が感じられた。それは、父親の世代に対する「なぜ、ナチスの暴虐を許したのか?」という問いかけから始まった。「象牙の塔」に安住していた高名な大学教授たちも、「専門バカ」と酷評された。それと関連して、大学の学問への批判、ベトナム戦争への抗議などが、時には過激なやり方で展開され、警察の取り締まりも急速に暴力化した。この動きがやがて日本にも波及して来たことは周知の通りである。

その頃、ベルリン・ブランデンブルク州教会の監督クルト・シャルフは、対立する双方の陣営の間に立って暴力をやめるように訴え、社会に向かっては冷静さを保つように呼びかけつつ、学生たちを「テロリスト」呼ばわりしないで彼らの言い分にも耳を貸すように説得するなど、たゆまぬ努力を続けていたが、1974年10月に「赤軍派」の指導者ウルリケ・マインホーフを獄中に訪ねたのである。彼女は、テロ行為に関与したという理由で収監されていた。

この訪問に対して、激しい非難が集中したのである。特に、扇情的なゴシップ記事を売り物にドイツでは庶民に最も人気がある新聞『ビルト』は、シャルフ監督を「赤い監督」と呼び、「過激派の黒幕」と断じて執拗な個人攻撃を繰り返した。

私は、1981年9月に、既に引退していたシャルフさんをベルリンの自宅に訪ねて約1時間、かなり突っ込んだインタビューをしたことがある。その時の対話の内容はテープから起こして、拙著『西ドイツ教会事情』にそのまま載せた(222頁以下)。

このインタビューの中で、シャルフ元監督は彼の「自分史」を淡々と語ってくれた。ナチス支配下のドイツで「告白教会」のメンバーとして抵抗運動に関わったこと。そのために何度も投獄されたこと。しかし、終始一貫、牧師として働くことに力を尽くし、喜びも感じていたこと。だから、マインホーフを獄中に訪ねたのも、牧師としての「魂への配慮」の一環であった、と彼は言った。

 

ここで、もう一度イエスに眼を向けたい。彼は、徴税人や罪人たちを迎えて食事まで一緒にした。そんなことをすれば、「こいつも道を踏み外した連中の仲間だ」と言われることは目に見えている。だが、それでもイエスは、その人たちを受け入れた。そして、「九十九匹を野原に残して、見失った一匹を見つけ出すまで捜し回る」4節)羊飼いの譬えを用いて、「悔い改める一人の罪人については、悔い改める必要のない九十九人の正しい人についてよりも大きな喜びが天にある」7節)と言われた。

シャルフ監督がこのイエスに従って生き・行動したことを、私は疑うことができない。そして、これは、現代の教会の姿勢に関する貴重な教訓でもあるのだ。



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