2009.5.31

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「キリストの平和」

村上 伸

ヨエル書3,1-5;ヨハネ福音書14,25-31

イエスは、「弁護者、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊が、あなたがたにすべてのことを教え、わたしが話したことをことごとく思い起こさせてくださる」26節)と言われた。この約束がペンテコステの日に実現したのである。

その日、何が起こったのか?

使徒言行録2章によれば、弟子たちがエルサレムのある所に集まっていると、そこへ、「突然、激しい風が吹いて来るような音が天から聞こえ、彼らが座っていた家中に響いた。そして、炎のような舌が分かれ分かれに現れ、一人一人の上にとどまった。すると、一同は聖霊に満たされ、”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」(2-4節)という。

「激しい風」とか、「炎のような舌」という異常な現象を、私たちはどう理解したらよいのだろうか。これは興味ある問題だが、今は、そのことにこだわらないことにしよう。単純に、弟子たちの身の上に起こった大きな変化がこのような形で表現されている、と受け取っておきたい。

それよりも重要なのは、「”霊”が語らせるままに、ほかの国々の言葉で話しだした」ということである。その時、エルサレムにはいろいろな国から来た人々が大勢いたが、「だれもかれも、自分の故郷の言葉で使徒たちが話をしているのを聞いて、あっけにとられてしまった」(6節)。むろん、意味不明のことを喋ったわけではない。11節にあるように、使徒たちは「神の偉大な業を語った」のである。それが、人々には「わたしたちの言葉で」(11節)、つまり、各自の「母語で」語られたように聞こえ、完全に理解できた。ペンテコステの日に起こったのは、このような「言葉の奇跡」であった。

外国との交流が盛んになると、「言葉の壁」にぶつかることも多い。他方、言葉は通じなくても「互いに分かり合える」という感動的な経験もある。こういうことは、いわば日常的な経験だが、「言葉」については、もっと深刻な問題がある。それは、皆が同じ言葉を話す国にいるのに、互いに「話」が通じないことである。『夕鶴』のおつうが嘆いたように。この意味での「言葉の混乱」が現代世界の大きな問題である。その原因は何だろうか?

よく「バベルの塔」の説話(創世記11章)が引き合いに出される。「東の方から移動してきた人々」2節)が、「石の代わりにれんがを、しっくいの代わりにアスファルトを」という技術革新を成し遂げた。彼らは得意になり、誇り高ぶって、「さあ、天まで届く塔のある町を建て、有名になろう」(4節)と話し合った、という。

技術によって大きな力を持つようになった人間は危険である。その最もよい例は、核技術の開発だ。これが今や全世界を脅かしている。北朝鮮だけではない。米・ロ・英・仏・中・印・パなどには、はるかに進んだ技術と膨大な量の核ミサイルが既に存在している。そして、技術を手に入れた人には巨大な権力が集中する。今に始まったことではない。だが、神は人間の高ぶった企てをやめさせるために言葉を混乱させたというのである。「直ちに彼らの言葉を混乱させ、互いの言葉が聞き分けられぬようにしてしまった」(7節)。

しかし、神はこの「言葉の混乱」を放置してはおかない。言葉の本来の機能、つまり、人と人とが互いに結ばれ、互いにその心が分かり合えるという言葉の秩序を、神は再び世界に取り戻す。ペンテコステの日に起こったことは、そういうことだ。

 

さて、今日のテキストであるヨハネ福音書に戻りたい。イエスは続けてこう言われた。「わたしは、平和をあなたがたに残し、わたしの平和を与える。わたしは、これを、世が与えるように与えるのではない。心を騒がせるな。おびえるな」27節)。

ペンテコステの日に与えられるのは「平和」である。それも「キリストの平和」である。そして、それは「世が与える」ような平和ではない。

ドイツの優れた物理学者で哲学者でもあったカール・フリードリッヒ・フォン・ヴァイツゼッカーは、後に「平和の哲学者」といわれるようになった傑出した人物だが、自分の若き日を回想して率直に自らの過ちを告白したことがある。1933年にヒトラーが権力を握ったとき、彼は20歳の青年物理学徒だった。それまでは、彼はヒトラーの力を評価せず、むしろ軽蔑していたのだが、だからといってそれ以前のワイマール共和国の状況、つまり、ブルジョア的な社会システムを認めることもできず、漠然と新しい時代への期待を抱いていた。「そのために、ある辛らつな批評家が<似非(えせ)聖霊降臨>と名づけたあの1933年の出来事を受け入れてしまったのです。とにかく、その時までは力なく絶望していた無数の人間が、共通の生活を目指すようになったという事実。これが私を動かしたのでした」と彼は言う。

似非(えせ)聖霊降臨!ヒトラーが権力を握ったとき、「聖霊降臨」とよく似た現象が起こった。ヴァイツゼッカーの言葉を引くと、「その時までは力なく絶望していた無数の人間が、共通の生活を目指すようになった」のである。ヒトラーの演説には多くの人々を感動させるところがあった。よく「鳥肌が立った」というが、一種の霊感が無数のドイツ人を奮い立たせ、共通の目標を与えた。ペンテコステの日に起こったこととよく似ている。しかし、その本質はまるで違うものであった。

ヒトラーが与えた目標は憎しみと暴力と戦争であり、彼が残したものは破壊と滅亡であった。だが、ペンテコステの日に実現したのは「キリストの平和」である。世が与えるのとは全く違う平和である。この決定的な違いを見誤ってはならない。



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