2009.5.3

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「イエスは主である」

村上 伸

イザヤ書53,9-12;フィリピ2,1-11

 先週はエゼキエル書34章に基づいて「教会と政治」の問題を考えた。旧約の預言者たちが良い手本になることは分かったが、教会にとって最も大切な規準は、矢張りイエス・キリストである。今日は先ずその点について述べたい。

 初代教会が活動を始めたばかりの頃、使徒ペトロが仲間と共に主イエスを宣べ伝えていると、当時の宗教指導者であった大祭司がサドカイ派の人々と一緒になってこれを禁じたことがある。むろん、ペトロとその仲間たちは敢えて騒ぎを惹き起こすようなことを言ったわけではない。使徒言行録2章47節によると、彼らはむしろ「民衆全体から好意を寄せられ」ていたのである。だが、権力者は新しい動きに対しては常に警戒的だ。だから、大祭司は彼らを投獄して、「もう宣教活動をしてはいけない」と厳しく命じた。それに対して彼らは、「人間に従うよりも、神に従わなくてはなりません」(使徒言行録5章29節)と答えた。信仰の立場から言えば、これが原則である。

 教会の思想や行動を最終的に決めることができるのは、世の中の習慣や時の支配者の命令、あるいは彼らが作った法律などではない。神であり、キリストである。パウロが、「神は、すべてのものをキリストの足もとに従わせ、キリストをすべてのものの上にある頭として教会にお与えになった」(エフェソ1章22節)と言ったのはこのことである。キリストが「教会の頭」であり、教会はその「キリストの体」なのだ。この切っても切れない関係から、教会の言葉や行動も決まってくる。

では、「キリストの体」である教会は、「国の法律」とどのように関わるべきなのか? この問題について考えることは、「憲法記念日」に相応しいであろう。

私たちは、日本国の市民としてこの国の法律を重んじるべきである。これは、当然のことだ。私たちは法律の定めるところに従って税金を納めるなど国民の義務を果たすし、教会も一つの宗教法人として「宗教法人法」の制約を受ける。

 だが、国の法律といっても、所詮は人間が作ったものであって、「絶対」ではない。たとえば、ヒトラーが支配していた頃のドイツでは、多くの法律が事実上ヒトラーの意向に沿って作られた。ユダヤ人迫害も「合法的に」行われた。だが、これらの悪法は、戦後すぐに効力を失った。

もう一つの例を挙げる。戦前の『大日本帝国憲法』には、「大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス」(第1条)、また、「天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス」(第3条)と謳われていた。この「天皇絶対主義」に基づいて、1925年に悪名高い「治安維持法」が制定され、それによって多くの社会主義者・良心的な学者たち・キリスト教徒・大本教の信者などが逮捕・投獄され、死者も出た。そして、この悪法も戦後廃止された。

 こうした歴史的事実が示すように、国の法律といえども絶対ではない。欧米で、思想上・信仰上の理由で「兵役を拒否する権利」が認められているのは、法律も絶対のものではないという認識があるからである。このことを心得た上で、いわば条件つきで、私たちは国の法律に従うのである。

他方、私たちキリスト者が「良い」と認めて積極的に活かして行くべき法律もある。それは、「すべての人が、共に、平和に生きていくために」という目的のために定められた法律である。『日本国憲法』はその一つだ。

 この憲法は「前文」において、「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないようにすることを決意した」と宣言している。これが憲法の根本精神である。だから、現人神・天皇を絶対化した「明治憲法」を否定して、「主権が国民に存する」と高らかに謳う。国政の権威は「国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する」というのである。

 この憲法はまた、「戦争の放棄」を定めている。「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇または武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」(第9条)。

 続いて、「基本的人権」については、こう書く。「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる」(第11条)。それは、「生命、自由及び幸福追求の権利」(第13条)、「法の下の平等」(第14条)、「思想及び良心の自由」(第19条)、「信教の自由」(第20条)等々、具体的に詳しく規定される。

 主権在民・戦争放棄・基本的人権という憲法の三本柱は、国内的にも国際的にも、すべての人が共に平和に生きていくために必要な原則であって、これは聖書の精神に合致していると言わねばならない。

 パウロは「何事も利己心や虚栄心からするのではなく、へりくだって、互いに相手を自分よりも優れた者と考え、めいめい自分のことだけでなく、他人のことにも注意を払いなさい」(フィリピ2,3-4) と教えた。すべての人が共に平和に生きていくために必要なのはこの「謙虚さ」であるという洞察がここにある。これは、『日本国憲法』にも引き継がれている、と私は考えている。

 パウロはさらに、「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました」(6-7節)と言う。キリストは自己を絶対化せず、「自分を無に」した。そのことによって、却って「あらゆる名にまさる名」(9節)を与えられた。つまり、「謙虚さ」こそが人類にとって最高の掟となった、というのである。『日本国憲法』が目指しているのもこのことではないだろうか。



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