2009.2.8

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「ぶどう園は誰のものか?」

廣石 望

イザヤ書5,1-7;マルコ福音書12,1-11

I

米国の金融危機に始まる世界同時不況が、私たちの国でも、製造業を中心にいわゆる実体経済を直撃しています。毎日、「大幅赤字転落」「減産」「工場閉鎖」「人員削減」といった言葉が、新聞の見出しに踊っています。最初に解雇される派遣社員の中に、大量の外国人労働者が含まれることを忘れてはいけません。他方、大きな金融機関や国の基幹産業には大量の税金が注入されます。大いに疑問なのは、かりに銀行や大企業が生き残ったとしても、大量の失業者が生まれる社会で、人間は果たして生き残ることができるのかという問いです。金融や産業は、いったい誰のものなのでしょう。投資家、経営者、業界、あるいは国のもの、それとも被雇用者たちのものでしょうか。

イエスが生きた時代のユダヤ社会も、ある意味で似通ったジレンマを抱えていました。この時代にも、誰が、どのような仕方で生き残る権利をもっているのかが争われたからです。ある人々は、それは父祖伝来の律法を守る者だと主張しました。しかしその場合、律法をどのように解釈すべきなのでしょうか。そして律法を遵守できない者はどうなるのでしょうか。あるいは征服者であるローマ人と協調できる者たちが権益を享受できるとする人々もいました。私たちの国にはある外国の軍事基地がたくさんありますので、よく分かりますね。しかしその場合、どのていど民族固有の伝統を放棄してもかまわないのでしょうか。それを自分で決められる王侯貴族はともかく、一般民衆はどうなるのでしょう。そして、そもそもこの土地の真の継承者とはいったい誰なのか。神の民イスラエルでしょうか、それともローマ人でしょうか。

今日は、イエスのたとえをとりあげて、先行き不透明な時代にあって、この世界を受け継いでゆくのは誰なのかという問いを、ごいっしょに考えてみましょう。

II

現在、マルコ福音書にあるかたちの「ぶどう園の農夫」のたとえは、キリスト教信仰の立場から、つまりイエスの死と復活を踏まえた視点から大いに手が加えられていると、多くの学者たちが考えています。とくに9節の後半以降がそうだと、ほぼ一致して言われています。

ぶどう園の主人が、農夫たちを「殺し」、他の人々にぶどう園を「与える」という描写は(9節後半)、イエスの死後35年ほどして勃発した第一次ユダヤ戦争(AD66-70年)における、ユダヤ側の敗北を暗示しています。この戦争は対ローマ武装闘争でした。イエスのたとえは「一人の愛する息子」の殺害について語ります。したがってこの加筆は、ユダヤ側の敗北は神の一人息子であるイエスの殺害に対する神罰である、それは神が派遣した最後の使者をイスラエルが拒絶したことに対する必然的な報いである、と理解するよう読者に促していることになります。これはキリスト教的な歴史解釈の一例です。

さらに「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という文言を含む詩編の引用も(10-11節)、同様に原始キリスト教になって初めて加わったと一般に考えられています。イエスが自分のたとえを解説するときに聖書を引用することは、他にあまり例がありません。さらにこの引用では、「隅の親石」という表現は、明らかに復活のキリストをさしています。つまり「家を建てる者たち」であるユダヤ人指導層が十字架上に棄て去ったイエスを神は起こし、そのことが新しい建造物つまり新しい共同体であるキリスト教会の始まりになった、という発見がここにあります。

III

では、生前のイエスはどのような物語を語ったと推定できるでしょうか。この点については、いろいろな提案があります。今日は、それはおよそ次のようなものであったと考えたいと思います。

ある人がぶどう園を植え、農夫たちに貸し与えて、旅立った。

ときが来たので、彼は一人のしもべを農夫たちのもとに派遣した。ぶどう園の実りから〔彼の取り分を〕受けとるためであった。しかし彼らは、このしもべを捕らえて殴りつけ、空手で〔主人のもとに〕送り返した。主人は別のしもべを派遣したが、彼らはその頭を殴り、侮辱した。さらに派遣された別のしもべを、彼らは殺した。

そこで主人は、彼の息子を派遣した、「私の息子ならば敬ってくれるだろう」と言って。しかし農夫たちは互いに言った、「こいつは跡取りだ。さぁ、彼を殺そう。そうすれば相続はオレたちのものになるだろう」。そして彼らは息子を捕らえて殺し、ぶどう園の外に投げ捨てた。

主人は、ぶどう園を誰に与えればよいであろうか。

 この物語の中心問題は、明らかにぶどう園の主人と農夫たち、つまり所有者と小作人たちの秩序が壊れていることにあります。

 主たる登場人物(群)は「主人」「しもべたち/息子」そして「農夫たち」の三者です。彼らのあいだで主従関係が反復されます。真ん中にいる「しもべたち/息子」は、一方では主人に対して〈従〉の関係にありますが、他方で農夫たちに対しては〈主〉の立場、つまり所有者を代表する役割を担っています。つまり中間役者たちは相手によって二つの機能を果たす役を演じています。彼らは主人の委託に応えて振舞いますが、農夫たちの反抗にあってその役割を果たすことができません。その結果、主人は「敬ってくれるだろう」と期待した息子まで殺害されてしまい、ぶどう園の所有者としての面目は丸つぶれです。逆に農夫たちは、主人のもとにしもべを送り返すことで、あたかも自分たちこそが「主人」であるかのように振舞います。使者を派遣するのは主人の行為だからです。つまり農夫たちの行動は、ほとんど革命に近い。いったい、ぶどう園の関係者が従うべきルールは何なのでしょうか。ぶどう園は誰の相続分なのでしょうか。

IV

このイエスのたとえでは、二つの伝統的な役割図式が同時に作用しています。そして大変興味深いことに、イエスが語る物語は、通常それらの図式から連想されるフォーマットから、みごとに外れているのです。以下のようなぐあいです。

強く作用している図式の第一は〈農場主―小作人〉の関係です。ヘレニズム・ローマ時代のガリラヤ地方には、比較的に大きなプランテーションを経営する地主と、そこで働く多数の小作民という社会構造が広がりました。こうした社会背景のもとで、〈農場主―小作人〉という図式は、「不在地主」「不当な搾取」「抵抗と反乱」「反エリート(反ローマ)感情」「民族主義」といった連想を生みます。ところがイエスのたとえでは、農場主はとりたてて悪辣な存在としては描かれていません。彼は所有にもとづく正当な取り分を求めているだけです。他方、農夫たちによる暴力のエスカレーションには目に余るものがあります。とりわけ殺害した息子の死体遺棄にいたっては、聴衆はもはや農夫たちに同情するのをやめて、むしろ反感を覚えるのではないでしょうか。こうして全体として、本来ならば先祖から代々受け継ぐべき嗣業を暴力に訴えて奪取しよう、あるいは所有エリートの地位を腕ずくで手に入れようとすることに対する違和感のようなものがうかんできます。「主人は、ぶどう園を誰に与えればよいであろうか」。

もう一つ、この物語で強烈に作用しているのは、〈ぶどう園―イスラエル〉という図式です。さきに朗読したイザヤの「ぶどう園のうた」(イザヤ書5,1-7)に代表されるように、「ぶどう園」は神の民イスラエルのシンボルです。しかもこの象徴は、イスラエル民族が神の前で自らの責任を問われる、という〈審判〉の文脈で使用されることが多いのです。神はぶどう園の所有者として、イスラエルから「よき実」を要求するからです。ところがイエスのたとえでは、ぶどう園の主人は小作人である農夫たちから、その「実り」を要求しても逆に拒絶されてしまいます。もしかして、テストされているのは農夫たちでなく、むしろ主人なのではないでしょうか。農夫たちはぶどう園を腕ずくで相続しようとしているのですが、主人の方は農夫たちの真の意図をいっこうに理解せず、自分の息子を派遣して、むざむざと殺されてしまう始末。まるでバカがつくほどの「お人よし」です。〈ぶどう園―イスラエル〉のシンボリズムにおけるぶどう園の所有者は、通常なら「神」です。しかし「一人息子」を失ったこの神に、もはや相続を託すべき者はいません。「主人は、ぶどう園を誰に与えればよいであろうか」。

 ――この物語は、誰がこの世界を「相続」するのか、誰がこの世界の「実り」を享受する権利をもっているのかをめぐる葛藤を描いているようです。〈農場主―小作人〉あるいは〈ぶどう園―イスラエル〉という伝統的な図式に共通しているのは、社会的な現実や民族主義的な神話によって正当化された所有関係です。これに対してイエスの物語は、そうした観念がもはや機能しない状況を描き出しています。つまり資本家階級から土地を奪い返そうとする農夫たちも、「神のぶどう園」というシンボルに支えられたイスラエル民族主義も、ぶどう園の相続候補者としては適性を欠いているようなのです。

V

 「主人は、ぶどう園を誰に与えればよいであろうか」という問いに、イエスのたとえは直接答えません。聞いた者たちが考えるべきなのでしょう。そこで他のイエスの言葉に手がかりを求めたいと思います。彼は、「柔和な人々は、幸いである。その人たちは地を受け継ぐ」(マタイ福音書5,5)と宣言しました。「柔和な」と訳されたギリシア語は、もとは重荷に打ちひしがれて背中を「かがめた」というほどの意です。さらにイエスは、「徴税人や娼婦たちの方が、あなた方より先に神の国に入るだろう」(マタイ福音書21,32)と言いました。あんな職業につくなんてと言われている人たちにこそ、神の恵みは優先的に注がれるということなのでしょうか。またイエスは、こうも言いました。「子どもたちを私のところに来させなさい。妨げてはならない。神の国はこのような者たちのものである」(マルコ福音書10,14)。――これらの言葉すべては、この世界にあって社会的にも、民族伝統的にも小さくされた人たち、自らの権利を主張することすらできないでいる人々こそが、ぶどう園の真の相続者であることを暗示しているようです。

 復活節の後の原始キリスト教会が、詩編の言葉の中にイエスの死と復活を読みとったのは、すばらしい発見であったと思います。なぜなら「家を建てる者の捨てた石、これが隅の親石となった」という言葉は、イエスがそのような小さき者の一人になったこと、そしてそのイエスを通してこそ神が新しい未来を開いたことを、今や理解させるものであったからです。私たちにも現在の所有関係や、自民族中心的な偏見から自由に、この世界の「実り」の相続について、あらためて考えるべきときが来ているのではないでしょうか。



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