大晦日の『毎日新聞』<余禄>欄に、年末恒例の「いろはカルタ」が載っていた。2008年の世相を言い表したもので、中でも「論より解雇に何も家ねえ」というのが強く印象に残った。「論より解雇」は「論より証拠」をもじったもの。それに北京オリンピックで二連覇を達成したときの北島選手の感想「何も言えねえ」を結びつけたらしい。「言えねえ」は「家がない」と書く。つまり、「非正規労働者」の仕事や住居が、有無を言わせず一方的に奪われる、その暗い現実を言い当てている。
他にも、腹立たしい現実を描き出したものが多くあった。「放棄高齢者医療制度」(後期高齢者医療制度)、「理不尽極まる誰でもよかった」(通り魔殺人事件)、「ルーズの権化、社会保険庁」、「温暖化止まらず洞爺湖の霧深く」、「悪知恵尽きぬ振り込め犯」、「世も末学府に大麻草」、「使い回して料亭消える」、「ならぬ入院足りぬ産科医」、「不慎銀行東京」(新銀行東京)、「採用無い定」など。「みちのく鳴動パンダ四川震撼」、「火の車産業」(自動車産業)、「税の上げにも三年」(三年後の消費税率アップ)、「崖の縁のタロ」(崖の上のポニョ、麻生太郎)、などというのもある。明るい気持ちにさせてくれたのはごく僅かで、「歴史を変えるクラスター禁止条約」、「源氏の光は千年不滅」、「夢のノーベル未曾有の四人衆」くらいだ。
このような暗い現実の中で、我々は今、新年を迎えた。暦が新しくなったからといって世界が突然変わるわけもないから、昨年世間を騒がせた数々の問題は、少なくとも当分は解決されないまま残るであろうし、暗い気分は変わらない。
しかし、我々はここで改めて聖書の真理に注目し、その光を受けることによって心を新たにしたい。『ローズンゲン』が年間標語を定めているのもそのためである。そして、今年選ばれた標語は、「人間にはできないことも、神にはできる」である。
この箇所は、ある金持ちの議員がイエスに「善い先生、何をすれば永遠の命を受け継ぐことができるでしょうか」(18節)と質問したことから始まっている。イエスが「十戒」に書かれている神の掟を守ることが大切だと答えると、議員は、「そういうことはみな、子供の時から守ってきました」(21節)と言葉を返した。「そんなことは分かっていますよ!」と言わんばかりだ。そこでイエスは、この議員が今まで意識的に避けてきた問題、つまり、彼の弱点を衝くのである。その22節を、本田哲郎神父の翻訳が感じをよく出しているから読んでみよう。「あなたには、し残していることが、まだ一つある。あなたが握っているものを貧しい人たちと交換し合い、さし出しなさい」。23節の本田訳はこうである。「その人は、これを聞いてすっかり落ちこんでしまった。たいへんな金持ちだったからである」。
このやり取りの後で、イエスは「財産のある者が神の国に入るのは、なんと難しいことか。金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」(24-25節)と感想を洩らされた。これを聞いた人々が、自己弁護をするためだろうか、「それでは、だれが救われるのだろうか」(26節)と反問した。それに対するイエスのコメントが、「人間にはできないことも、神にはできる」だったのである。
このように見て来ると、この言葉はただ抽象的に「人間の不可能性」と「神の可能性」について語っているのではない、ということが分かる。「人間にできないこと」とは、具体的には、「自分が後生大事に握りしめているものを貧しい人たちと分かち合うことなど到底できない」という考え方を指していると考えるべきであろう。
ある注解者は、当時の金持ちには、実際、そういう考え方が有力であったと説明している。金持ちは貧しい人たちを軽蔑して、彼らがいつまでも貧乏から脱け出せないでいるのは、怠け者で頭も悪いからだと考えていた。だから、自分が一生懸命努力して作った金をそんな連中にただで分け与えることなど、到底「できない」と考えていた、というのである。
この点、現在の世界経済の問題と通じるものがあるように思われる。「サブプライム・ローン」や「リーマン・ブラザーズ」、さらには「三大自動車メーカー」の破綻など、経済の詳しい仕組みについては、私には理解できないことが多い。しかし、私にも分かることがある。それは、頭のいい・抜け目ない人々が巨大企業を経営して想像を絶するほどの富を地上に積み上げたが、その栄華は脆くも崩れた、ということである。その影響は巨大な津波のように全世界を襲い、余波は今もなお続いている。
このような危機に直面した時、これらの企業は先ず手足として働く労働者を大量に切り捨てて(いわゆるリストラ)、頭脳と心臓部を守ろうとする。企業本体を、今、ここで潰すわけにはいかない、そんなことは「できない」。利潤を生み出す頭脳と心臓部は、国民の税金を使ってでも保護されなければならない、と主張する。そして、「トカゲの尻尾」のように切り離された労働者は、あの「いろはカルタ」にもある通り、「論より解雇に何も家ねえ」と嘆く羽目になるのである。
だが、困難の中で苦しみを分かち合い、仕事を分け合い(ワークシェアリング)、共に生きて行くことは本当に「できない」だろうか?
エゴイズムに支配されたこの世界においては、それは「できない」と考えられる。だが、神は生き給う。たとえば、この年末から日比谷公園で、解雇された労働者に食事と眠る場所を提供する働きを始めた人たちがいる。神は、こうした善意の人々を起こして、愛の御業を続けられるのである。その意味で、我々は「人間にはできないことも、神にはできる」と信じる。この信仰によってこの年も生きて行きたい。