ルカ福音書は、幼い頃のイエスに関する二、三のエピソードを伝えている。12歳のイエスが神殿で学者たちを相手に議論をしたというのもその一つだが(2章41節以下)、今日の箇所は、両親が生まれて間もないイエスを「主に捧げるために」(22節)神殿に連れて来たという話である。これは、イエスのその後の生涯、特に十字架の苦難を暗示した物語でもある(34-35節)。
さて、テキストに注目したい。両親は、初めて生まれた男の子イエスを「主のために聖別」(出エジプト記13章1節)しようとして、律法の規定に従って鳩を何羽か「いけにえ」として捧げた。そのとき、エルサレムに住むシメオンという老人が境内に入って来た。そして、イエスを見て直ぐ何かを感じたのだろう、幼子を腕に抱き、神をたたえて、「主よ、今こそあなたは、お言葉どおり、この僕を安らかに去らせてくださいます」(29節)と言った、というのである。「もう、いつ死んでも思い残すことはない」という気持ちだったのだろう。
ところで、ある注解者が、「イエスの誕生物語」に登場する重要人物は、ヨセフとマリアを別とすれば、みな高齢者であるということを指摘している。先駆者ヨハネの両親(ザカリアとエリサベツ)も既に高齢だった(1章7節)。今日の箇所に登場するシメオンは、「イスラエルの慰められるのを待ち望み・・・主が遣わすメシアに会うまでは決して死なない、とのお告げを受けていた」(2章25-26節)というが、これも、彼が年をとっていることを示唆している。続いて出てくる女預言者アンナも同様だ。彼女は「非常に年をとっていて、若いとき嫁いでから七年間夫と共に暮らしたが、夫に死に別れ、八十四歳になっていた」(2章37節)。
その注解者は続けて言う。この人たちが高齢者であったということは、旧約の律法を忠実に守って生きて来た長い歳月を示すものだ、と。その通りだと思う。この人たちは例外なく律法に忠実であった。ザカリアとエリサベツの夫婦は、「神の前に正しい人で、主の掟と定めをすべて守り、非のうちどころがなかった」(1章6節)と言われているし、老齢に達したザカリアが祭司の務めを果たすために聖所に入り、そこで天使のみ告げを受けたのも、彼が律法に忠実であったことのしるしである。シメオンは「”霊”に導かれて神殿の境内に入り」(2章27節)、幼子を腕に抱いて神をたたえたが、その前提として、「彼が正しい人で信仰があつく、イスラエルの慰められるのを待ち望んで」(25節)いたことが挙げられている。女預言者アンナも、「神殿を離れず、断食したり祈ったりして、夜も昼も神に仕えていた」(37節)という。
このように、この人たちは律法に忠実に生きて来た。「いたずらに馬齢を重ねた」わけではない。真摯な高齢者としてイエスに出会い、そこで決定的な「転機」を経験したのである。これが今日の箇所の眼目だ。「転機」といっても、自分たちの今までの生き方、すなわち、モーセ律法にどこまでも忠実であろうとする生き方を捨てたわけではない。むしろ、イエスの中に、これまで自分たちが求めて来た生き方の成就、あるいは完成を発見して喜んだのである。「完成」とは何か? それは、旧約聖書を全体として見渡すときに明らかになるだろう。
旧約聖書には、無論、「正義」が厳然として存在する。「モーセ律法」は、正義を実現することを最大の眼目としているからだ。「愛」もある。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」(レビ記19章18節)。また、そこには「他者への思いやり」もある。「搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護せよ」(イザヤ書1章16-17節)。「平和思想」もある。「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2章4節)。さらには、「他者のために自らを犠牲にする」という思想すら存在した(イザヤ書53章)。
だが、他方で旧約聖書は、「正義」を実現するために律法に背く「悪人」は殺せ、と命じている。イザヤのような素晴らしい「平和思想」があるにもかかわらず、多くの場合、「戦争」も正当化されている。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」という教えも、イスラエル中心の「正義観」の陰に隠れて説得力を失っている。「他者への思いやり」も同様である。「他者のために自らを犠牲にする」いう「主の僕」(イザヤ書53章)の深遠な思想も、畢竟、「思想」に過ぎなかった。
ところがイエスは、これら旧約聖書の教えや思想を文字通り「徹底した」のである。、彼が「あなたがたも聞いているとおり、昔の人は『殺すな。人を殺した者は裁きを受ける』と命じられている。しかし、わたしは言っておく。兄弟に腹を立てる者はだれでも裁きを受ける」(マタイ5章21節)と教えたことは、その代表例だ。イエスは人を殺すことはおろか、怒ることや罵ることまで禁じ、戦争はおろかあらゆる敵意を否定したのである。しかも、イエスは自らの命をかけてそれを実行した。
この意味で、イエスは旧約の律法を「完成した」のである。イエス自身、「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)と言われた通りだ。
「シメオンは幼子を腕に抱き、神をたたえて言った。『わたしはこの目であなたの救いを見た』」(30節)。私もシメオンの年齢に達した。外で幼子を見かけると愛しくてたまらないと感じることがある。だが、シメオンが幼子イエスを大事に腕に抱いたのは、単に可愛いと感じたからではない。その中に律法の完成を見た畏敬からだ。
我々も、この「幼子を腕に抱いて」生きて行きたいと心から願う。