2008.11.23

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「待ち望む生活」

村上 伸

イザヤ書65,17-20;ペトロ2 3,8-13

今日は、教会暦では一年最後の日曜日、つまり「終末主日」である。それに因んで、教会では昔からこの日に「死者のための礼拝」を守ったり、「終末」について説教したりしてきた。この伝統に従って、今日は「終末」について考えたい。

与えられた説教テキストはペトロの手紙二3,8-13である。この手紙は、紀元120年頃のある教会指導者が、使徒ペトロの名を借りて書いたと考えられている。あの時代の人は、基本的には、後期ユダヤ教の「黙示文学的な」ものの考え方(パラダイム)によって考えたり書いたりしていた。だから、科学的な世界観の中で生きている現代人にとっては理解しにくい発想や用語が多いかもしれない。だが、矢張りそこでも問題になっているのは人間歴史のことであるから、現代の我々にも無関係とは言えないだろう。

 

さて、「終末」と聞くと「何か不吉な・禍々しいこと」を連想する人が多いと思う。そして、それを現代の危機と関連させて理解しようとする傾向もある。

たとえば「環境問題」である。「地球温暖化」もその一つだが、平均気温が上がるにつれて北極や南極の氷が溶け、その結果、海水面が上がるという。海水面の上昇に伴って、バングラデシュのような海抜ゼロメートル地帯や、南太平洋のツバルとかフィジーといった小さな島々は、やがて水没すると言われている。その先触れともいうべき現象は、既に現れている。北半球の富める国々は、いくら「地球環境の悪化はやがて地球の破滅を招くだろう」と警告されても、まだ他人事のようにしか聞いていないところがあるが、今挙げた国々にとっては、破滅は差し迫った現実なのだ。なにしろ、島そのものが無くなるのである! 彼らにとって、それは正に「終末」に違いない。

また、「米国発の金融不安」と言われるものが、今、全世界を脅かしている。「今までは曲がりなりにも機能していた世界経済の仕組みが崩壊してしまった」とも言われる。アメリカでは今、「オバマ政権」の人事が進んでいるが、果たしてこの新政権が危機に対して適切な手を打てるかどうか、確かなことは誰にも分からない。危機に対処する日本政府の姿勢に至ってはまことに心もとない。人々の不安は増すばかりで、「世界はもう終末に近づいているのではないか」と言う人もいる。そして、この不安な心理状態につけ込んで、怪しげな宗教や、一儲けを企む詐欺師が跋扈する。

このような現象を我々の世界の「終末」と受け取り、不安と恐れを感じる人は少なくないだろう。実は、聖書が「終末」を描写する際にも、不安と恐れを掻き立てるような書き方が多く見出される。今日のテキストにも、「その日、天は激しい音をたてながら消えうせ、自然界の諸要素は熱に溶け尽くし、地とそこで造り出されたものは暴かれてしまう」(10節)とか、「すべてのものは滅び去る」11節)とか、「天は焼け崩れ、自然界の諸要素は燃え尽き、溶け去る」(12節)といった言葉が並んでいる。

これらは今から2000年も前の「黙示文学的な」書き方だから、一つ一つの表現をそのまま受け取らなくてもいいかもしれないが、「不安と恐れ」を感じていたという点では、古代人も現代人も大して違いはないのである。

 

そのことを申し上げた上で、私はここで、聖書の言う「終末」が、単に「恐ろしい破滅」を意味するものではないということを指摘しておきたい。

私がまだ若い神学生だった頃、熊野義孝先生が我々を前にして、あたかも優しいお祖父さんが孫たちに語りかけるような温和な表情で、「ねえ、君たち、終末論というのはね、希望の教えなんだよ」と語ってくれたことを忘れることができない。この一言は、私の迷いを打ち砕き、今に至るまで心の大きな支えになっている。

『ペトロの手紙』の筆者が13節で述べているのは、正にこのことなのである。「わたしたちは、義の宿る新しい天と新しい地とを、神の約束に従って待ち望んでいるのです」!

「終末」とは、単なる「終わり」でもなければ「破滅」でもない。「主が来るという約束」(4節)が実現する日、その意味で「主の日」(10節)、「神の日」(12節)である。主イエス・キリストが再び来られる。その日には、「現在の天と地」は「新しい天と新しい地」に取って代わられる。つまり、「義の宿る新しい天と新しい地」である。

それはどのような世界だろうか?

イザヤ書1章16-17節に預言されているように、皆が「悪を行うことをやめ、善を行うことを学び、裁きをどこまでも実行して、搾取する者を懲らし、孤児の権利を守り、やもめの訴えを弁護する」ような世界である。また、イザヤ書65章18-19節によれば、神が「その民を喜び楽しむものとして創造し・・・泣く声、叫ぶ声は、再びその中に響くことがない」と約束されたような世界である。さらに、マルコ福音書1章15節で主イエスが約束されたように、神の真実の支配が打ち立てられる世界である。「神の国は近づいた」。また、ヨハネ黙示録21章3-4節に告げられているように、「見よ、神の幕屋が人の間にあって、神が人と共に住み、人は神の民となる。神は自ら人と共にいて、その神となり、彼らの目の涙をことごとくぬぐい取ってくださる。もはや死はなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである」という約束が実現する世界である。

我々はただ「終わり」を待っているだけではない。「主の日」を待ち望んで、「マラナ・タ」(主よ、来たり給え)と祈りながら一日一日を生きているのである。



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