2008.9.21

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「最も重要な掟」

村上 伸

申命記6,4-9; マルコ12,28-34

 旧約聖書には数え切れないくらい多くの掟(戒め)があるが、人は、余りに多くの言葉に接すると困惑して「要するに何ですか?」と訊きたくなるものだ。今日の所で一人の律法学者が、「あらゆる掟のうちで、どれが第一でしょうか」(28節)とイエスに尋ねたのも、同じ気持ちからではないだろうか。サドカイ派の人々との問答で(18節以下)、イエスが「立派にお答えになった」(28節)のを見たので、この人なら、少ない言葉で単刀直入に要点を教えてくれるだろうと期待したのかもしれない。この学者は、無数の律法を扱う煩瑣さに聊かウンザリしていたのではないかとも考えられる。それで「要するに最も重要な第一の掟は何ですか?」と問うたのである。

 この問いに答えて、イエスは躊躇わずに申命記6章4-5節を挙げた。「聞け、イスラエルよ。我らの神、主は唯一の主である。あなたは心を尽くし、魂を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい」。ここは、本田哲郎訳では「心のそこから、自分のすべてをかけ、判断力を駆使して、力のかぎり、あなたの神、主を大切にせよ」となっている。イエスは、これが第一の掟だと言う。

 それに続けて、間をおかず、ほとんど一息で、イエスは第二の掟を挙げる。レビ記19章18節である。「自分自身を愛するように隣人を愛しなさい」。そして、「この二つにまさる掟はほかにない」(31節後半)と言う。これは、マタイの並行箇所では「律法全体と預言者はこの二つの掟に基づいている」(22章40節)となっている。

 旧約聖書には、ひどい命令も多くある。例えば、申命記7章では、カナンの七つの先住民族を滅ぼせと命じられている。「[彼らを]あなたの前から追い払い、あなたの意のままにあしらわせ、あなたが彼らを撃つときは、彼らを必ず滅ぼし尽くさねばならない。彼らと協定を結んではならず、彼らを憐れんではならない」(1-2節)。

 ところが、イエスはこの種の掟を全く無視するのである。むろん、自らの気持ちに従って、聖書を好き勝手に解釈したわけではない。むしろ、あらゆる掟の背後に潜む神の深い御心を汲み上げ、それを実際の生活の中で生かそうとしたのである。「わたしが来たのは律法や預言者を廃止するためだ、と思ってはならない。廃止するためではなく、完成するためである」(マタイ5章17節)というのも、そういう意味だ。

 「律法や預言者を完成する」ということは、あの時代の諸民族の生き方をそのまま反映した掟、つまり、敵への「憎しみ」や「復讐」を命じた数々の掟を杓子定規に実行することではない。逆である。旧約の最も深い層に、あたかも清冽な地下水のように、神の約束が尽きることなく流れている。これを汲み上げることだ。預言者イザヤが、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す…わたしの聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。水が海を覆っているように、大地は主を知る知識で満たされる」(イザヤ書11章6-9節)と歌ったように、憎しみや復讐という血腥い生き方が克服されて、すべての人が愛し合って共に生きる平和な日が来るということを神は約束された。シャロームが訪れ、弱肉強食が完全に止む日が来るという、この神の約束に適合した掟を、イエスは選択したのである。それが、「心から神を愛しなさい」・「隣人を愛しなさい」という二つであった。

 では、「神を愛する」とはどういうことか?

 第一次世界大戦のとき、ドイツ軍の兵士たちが被っていた鉄兜には「神は我らと共にいる」と書かれていた。ドイツ軍に限らず、すべての国の軍隊は自分たちの国で「正義」と言われていることを守るために戦い、そして、その「正義」の象徴である「神」が自分たちの味方であると信じる。戦時中の私たちも、同様であった。

 だが、「神を愛する」とは、そのように身勝手なことではない。イエスの心の中にいる神は、我々が「自分自身を愛するように隣人を愛する」ことを望む神である。その神を愛するのである。心の底から、自分のすべてをかけ、判断力を駆使して、力の限り、この神を大切にするのである。だから、「神を愛する」ということは、「隣人を愛する」ということと一つなのだ。そして、パウロが言ったように、「愛」こそは人として歩むべき「最高の道」(1コリント12章31節)なのである。

 このことは、20世紀最大の悲劇「ホロコースト」の中でも実証された。精神医学者ヴィクトール・フランクル(1905〜1997)は、自らのアウシュヴィッツ体験を『強制収容所における一心理学者の体験』と題する詳細な報告にまとめているが、それによると、彼は収容所で、妻とは別の囲いに入れられた。無論、全く連絡は取れない。そういう状況の中で、彼は毎日彼女の面影を見るのである。それは、彼女が既にこの世の人ではなくなってからも変わらない。彼は書いている。「私は彼女と語った。私は彼女が答えるのを聞き、彼女が微笑するのを見る」。それが彼の支えであった。

 彼は続けて書いている。「多くの思想家が叡智の極みとして生み出し、多くの詩人がそれについて歌ったあの真理を、[私は]生まれて初めてつくづく味わった。…愛は結局、人間の実存が高く翔り得る最後のものであり、最高のものであるという真理である。私は今や、詩と思想と信仰が表現すべき究極の極みであるものの意味を把握した」。それは、「愛による、そして愛の中での被造物の救いである」(『夜と霧』123頁)。

 フランクルがあのような極限状況の中で経験し、把握したことは、イエスが「愛よりも重要な掟はない」と言ったこととぴったり重なる。また、それは、パウロが「信仰と希望と愛、この三つは、いつまでも残る。その中で最も大いなるものは、愛である」(13章13節)と言ったこととも符合するのである。



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