パウロが初めてテサロニケという町を訪れた時のことは『使徒言行録』に詳しいが、それによると、彼は西暦50年頃ボスポラス海峡を越えてマケドニヤに渡り、フィリピで数日間伝道した後、いくつかの町を経由してここに入った。ギリシャ半島の付け根にある陸海交通の要衝で、現在のサロニキである。ここにはユダヤ人の会堂があり、パウロはそこに集まって来るユダヤ人を相手に3週間にわたって論じ合い、主イエスのことを語ったが、結果は余り芳しくなかった。「神をあがめる多くのギリシャ人や、かなりの数のおもだった婦人たち」(使徒言行録17章4節)が入信したが、それを嫉んだユダヤ人が、町の「ならず者を何人か抱きこんで」(5節)パウロを追い出してしまったのである。そういうわけで、この町にはあまり良い思い出がない。
それだけに、自分を受け入れてくれた人々の真実は、強くパウロの心に刻まれたのであろう。先週も引用した3章7節は、そのことを物語っている。今日は、同じ言葉を、より簡潔でインパクトの強い『文語訳』で読んでみよう。「われらは、もろもろの苦しみと患難(なやみ)とのうちにも、汝らの信仰によりて慰めを得たり。汝らもし主に在りて堅く立たば我らは生くるなり」。これによって、お互いの間にどんなに深い心のつながり生まれたかが分かる。
さて、今日の箇所でパウロは、「神に喜ばれるためにどのように生きるべきか」(1節)ということについて教えている。いわば「キリスト教倫理」である。こういうことは、相手を裁くような姿勢で上から頭ごなしに命令しても、通じるものではない。多くの「道徳教育」はそれで失敗する。その点、パウロがテサロニケの信徒たちに向かって先ず「兄弟たち」(1節)と呼びかけ、自分たちが多くの罪や弱さを抱えながらも「主イエスに結ばれた者」であることを強調したのは、実に適切であった。心からの信頼、暖かい友情、また、強い連帯意識がここにはある。それがなければ、こういった類いの教えは中々受け入れられないだろう。
ここで彼は、先ず「神の御心は、あなたがたが聖なる者となることです」(3節)と言う。先に私は、テサロニケでは多くのギリシャ人が入信したと述べたが、彼らはギリシャ神話の神々の奔放な性愛(エロース)の世界に生きていた人々である。そこから、イエスが教える聖なる愛(アガペー)の世界へと移された。過去の世界とまだ完全には断絶していなかったかも知れないが、少なくとも新しい価値観によって生きるという方向へ一歩を踏み出していた。パウロはそのことを踏まえて、あなたがたは「聖なる者となる」と言ったのである。同じような言い方は、『ローマの信徒への手紙』にも見出される。「かつて自分の五体を汚れと不法の奴隷として、不法の中に生きていたように、今これを義の奴隷として献げて、聖なる生活を送りなさい」(6章19節)。
だから、「聖なる者となる」とか、「聖なる生活を送る」というのは、いきなり「聖人になる」ことではない。それは無理だ。「聖なる」(ハギオス)というギリシャ語は「神に捧げるために取り分けられた」という意味である。そのことを考慮すると、「聖なる者となる」とは、今まで自分を支配して来た古い価値観から自らを「分離して」、新しい価値観の下で生きること、少なくともそれを目指すことを意味するであろう。
パウロは、具体的な話を続ける。それは主として「性」の問題であった。先ず、「みだらな行いを避ける」(3節)ように、つまり、性的な不品行から遠ざかるようにと勧めた。次いで、「汚れのない心と尊敬の念をもって妻と生活するように学べ」(4節)と言うが、これには一寸問題がある。というのは、「妻」と訳されたギリシャ語(スケウオス)には確かに「妻」という意味もあるが、もともとは「器具」や「道具」、あるいは「からだ」を意味していたからである。『口語訳』では、「各自、気をつけて自分のからだを清く尊く保ちなさい」となっていた。女性を「子どもを生む機械」に喩えた人のことがまだ頭に引っかかっているので、今、私は『口語訳』を取りたい。
ところで、性の倫理に関するこのような教えに対しては、「余りに堅すぎる」とか、「偽善的だ」といった批判があるかもしれない。しかし、パウロは性的な衝動そのものを否定したのではなかった。健康な若い男女にそれがあるのはごく自然のことで、それはむしろ神が造られた創造の美しさに属するのである。その意味で、旧約聖書の中に『雅歌』が存在するのは素晴らしいことだ。ただ、それは容易に醜いものにもなり得るということに注意しなければならない。では、どういう時に醜くなるか?
性の関係は、成熟した人の人格的な関係である。そこには相手に対する愛情や思いやりがなければならない。それがあればこの関係は美しくもなり得るが、自分のことしか考えず、欲望を果たすためのただの「道具」(あるいは「機械」!)として相手を扱う時、それは忽ち醜くなる。パウロが3節で「みだらな行い」(ポルネイア)と言っているのはこれである。それは「情欲におぼれる」(5節)ということであり、そして、それは「兄弟を踏みつけたり、欺いたり」(6節)することにつながる。パウロが『コリントの信徒への手紙一』5章1節に挙げているのは、その具体例だ。「現に聞くところによると、あなたがたの間にみだらな行いがあり、しかもそれは、異邦人の間にもないほどのみだらな行いで、ある人が父の妻をわがものとしているとのことです」。
「ポルネイア」とは、このように自分の欲望を満足させるために見さかいがなくなった人間の「醜い行い」のことである。今、世界的に「幼児ポルノ」というものが流行っていて、日本はその一大生産基地だという。おぞましい限りだ。パウロの、「神がわたしたちを招かれたのは、汚れた生き方ではなく、聖なる生活をさせるためです」(7節)という言葉には、実に現代的な意味があるのではないだろうか。