イエスは紀元30年頃ガリラヤで宣教を始め、町々村々で神の言葉を語り、悪霊を追い出し、病気を癒した。その言動には、他の律法学者たちには見られない「権威があった」 (1章27節)。そのために、「イエスの評判は、たちまちガリラヤ地方の隅々にまで広まった」(同28節)。ある日、カファルナウムで、彼がある家の客となると例によって大勢の人が集り、「戸口の辺りまですきまもないほどになった」(2章2節)。
そこへ、「四人の男が中風の人を運んで来た」(3節)。しかし、その家は既に大勢の人で溢れていたために、中へ入ることができない。そこで男たちは、やにわに担架ごと病人を屋上に担ぎ上げ、「イエスがおられる辺りの屋根をはがして穴をあけ、病人の寝ている床をつり下ろした」(4節)という。
当時、ユダヤの民家の屋根は梁の上に角材を並べ、その上に木の枝や葉を編み、さらに泥を塗って仕上げたものだったから、比較的容易に穴をあけることができた。修復作業もそんなに難しくはない。それにしても、これは非常識な行動である!
詳しいことは何も書いてないので推測するほかはないのだが、この四人の男たちは、不幸にして脳出血で倒れて全身不随になってしまった友人のことを、日頃からなにかと気づかっていたのだろう。折も折、イエスの噂を聞いたのだ。彼らは「その方だったら助けて下さる」と信じて病人を担ぎ込み、イエスの膝元に連れて行きたい一心から他人の家の屋根に大きな穴を開けてしまったのであろう。だが、イエスはこの非常識な行動を咎めなかった。そればかりか、彼らの素朴なひたむきさの中に「信仰」を認めた。ここに、イエスの優しさがある。
一つ、注目すべきことがある。「イエスはその人たちの信仰を見て、中風の人に、『子よ、あなたの罪は赦される』と言われた」(5節)。この病人と四人の男たちは、本来、別々の人格である。しかし、イエスは「その人たちの信仰を見て」、中風の人に「あなたの罪は赦される」と言われた、という。このことは、両者の間に切っても切れないつながりがあるということを示しているのではないか。
人間は、互いに無関係に、個々バラバラの状態で生きているのではない。深いつながりの中で生きている。パウロがある時、「わたしたちは・・・あなたがたの信仰によって励まされました。あなたがたが主にしっかりと結ばれているなら、今、わたしたちは生きている」(テサロニケ一 3章7-8節)と言ったことがある。また、「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶ」(コリント一 12章26節)とも言っている。中風の人と四人の友達の間にも、そのような「深いつながり」があったのである。そのことが、私たちを慰める。
さて次に、イエスが中風の人に「子よ、あなたの罪は赦される」と言われたことに注目したい。いったい、この病人の「罪」とは何だったのか?
ヨハネ福音書9章1-3節を読むと分かるように、その当時ユダヤ人の間では一般通念として、「病気は本人あるいは先祖の罪の結果である」と信じられていた。だから、病気にかかった人は、病気そのものがもたらす苦しみに加えて、「あの人は何か罪を犯したために罰が当たったのではないか」という周囲の人々の意地悪い視線にも苦しめられた。そのことがまた、病状を悪化させるという悪循環も生じたであろう。「罪」というのは、その意味で「社会的概念」である。周囲の社会が「罪人」を生み出すのだ。
韓国の聖書学者アン・ビョンム教授(故人)は、マルコ福音書、特にそこに登場する「民衆」についての研究で知られた。「民衆の神学」の生みの親の一人だ。1975年ごろ、彼は時の軍事独裁政権に抗議して民主化を求める運動に関わったために投獄され、泥棒や傷害犯、性犯罪者など、いわば最下層の民衆を代表するような人々と一緒に雑居房に入れられた。「両班」(ヤンバン:上流の知識階級)の家系出身の彼は、その人たちが話している言葉や、話の内容の余りの下品さに「吐き気がした」という。しかし、しばらく経つと、彼らの中に長い間社会の最下層でいわば「踏みつけにされて」きた人間の、積もりに積もった怨み・悲しみ・怒りがあることが分かるようになってきた。この体験が、福音書に出て来る「民衆」の理解のために役立ったという。
イエスは、「徴税人や罪人と一緒に食事をした」(16節)という理由で律法学者たちから非難されたというが、この場合の「罪人」には、例えば「貧しさのために律法に定められた犠牲を捧げることができない人」も入る、とアン・ビョンムは言う。余りの貧困ゆえに世間並みの付き合いが出来ない人も「罪人」と呼ばれた。貧しさのために売春をせざるを得ないところまで追いつめられた女性たちも「罪人」であった。多くの病人もまた、「罪人」に分類された。先ほど、私は、社会が「罪人」を生み出すと言ったが、それはこういうことである。
だが、イエスは「子よ、あなたの罪は赦される」(5節)と言われた。律法学者たちはこの言葉を聞いて、イエスは「神を冒涜している」(7節)と非難がましい気持ちになっていたが、イエスは彼らの心中を見抜いて、「あなたの罪は赦される」と言うのと「起きて、床を担いで歩け」と言うのとどちらが易しいか、と問いかける。むろん、後者のほうがより難しいのだ。イエスは、ご自分に与えられている神の権威を示すために、ここで敢えて難しい方の言葉を語る。「床を担いで家に帰りなさい」(11節)。これは解放の言葉である。あなたを「罪人」と呼び、冷たい裁きの視線を投げつける世間の目から、あなたは解放される。もうイジける必要はない。神はあなたのそばにいる。
イエスは、「低みから立つ貧しい人」(本田哲郎)として生まれ、「罪人」の一人になって共に生きた神の子である。この方の解放の言葉を、私たちは聞かねばならない。