2007・10・7

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「義と平和と喜び」

村上 伸

イザヤ書9,1-6;ローマ14,17-19

 「神の国は飲み食いではない」(17節)と言われている。この言い方は少し変だと感じた人もいるかもしれない。「神の国」と「飲み食い」はもともとカテゴリーが違う。「神の国は言葉ではなく力にある」(第一コリント4章20節)という言い方なら分かるが、どうしてここに「飲み食い」という言葉が出て来るのか?

 しかし、14章の前半を読めば、その事情が分かる。パウロがこの手紙を書いていた頃、地中海の沿岸諸地域は、政治的にはローマ帝国の支配下にあったが、宗教的には古代のさまざまな宗教(異教)の影響を受けていた。

 つまり、異教の神殿では祭儀が行われ、動物犠牲が神々に捧げられる。儀式が終わると、犠牲として屠られた動物の肉は市場に払い下げられる。ところが、キリスト教徒の中には、それは異教の神々に捧げられた肉だから「汚れている」と言って、決して食べようとしない人々がいた。他方、自分たちにとって異教の神々などはそもそも存在しないのだから、祭儀に用いられた肉だからといって「汚れている」わけではない、と主張する人々もいた。キリスト者はそのような迷信から解放されて自由になったのだから「すべてのことが許されている」(第一コリント6章12節)、というわけである。

 同じことは「暦」についても言える。異教には、日本の「お盆」や「お彼岸」のように、「ある日を他の日より尊ぶ」(14章5節)習慣があり、それがキリスト教徒の間にも一部残っていた。逆に、「友引」の日には火葬場が休みになるように、ある日を特別に忌み嫌う習慣も残っていた。そのために、教会内には「日を守る人」と「守らない人」の間に対立が生じたのである。

 パウロは、こうした「教会内の対立」の問題を取り上げて、「何を食べてもよいと信じている人もいますが、弱い人は野菜だけを食べているのです。食べる人は、食べない人を軽蔑してはならないし、また、食べない人は、食べる人を裁いてはなりません」(14章2-3節) と戒めたのである。

 異教の祭儀に用いられた「汚れた肉」は食べてはいけないものだと思い込み、その理由から「ベジタリアン」になった人を、パウロは、「信仰の弱い人」(14章1節)と呼んだ。むろん悪意があったわけではない。もう少し成長して、この「弱さ」からも抜け出せるようにという祈りを込めた期待からだろう。だが、パウロの周りには、この「弱い人たち」を、「古い掟に囚われた小心者」と見なして頭からバカにする人々がいた。逆に肉を食べない人は、食べる人を、「掟を守らない怪しからぬ奴」という気持ちから裁いた。そこでパウロは、前者に対しては「信仰の弱い人を受け入れなさい」(1節)、また、「軽蔑してはならない」(3節)と戒め、後者に対しては、「裁いてはならない」(3節)と命じたのである。

 なぜ軽蔑してはならないか。なぜ裁いてはならないか。その根拠は、「神はこのような人をも受け入れられた」(3節)、また、「キリストはその兄弟のためにも死んで下さった」(14節)という所にある、とパウロは言う。私たちも人を軽蔑したり裁いたりすることがあるが、どんな人であってもこの観点から見なければならない。前述したような意味での「飲み食い」は、「神はこの人をも受け入れられた」という真理、「キリストはこの兄弟のためにも死んで下さった」という究極の真理に比べれば取るに足りない。「肉を食べてもいいかどうか」というような些細な問題によって、教会内に互いに軽蔑し合い・裁き合う対立が生じてはならない。その意味で、パウロは「神の国は飲み食いではなく、聖霊によって与えられる義と平和と喜びなのです」(17節)と教えたのである。

 では、「神の国」とは何か? 「神の真実な支配」のことだ。今現在、私たちの世界で繰り広げられているのは、罪深い人間の際限もない欲望が生み出すもろもろの矛盾である。それによって理不尽な苦しみが無辜の人を襲い、癒し難い悲しみが人々を覆っている。罪がこの世界を支配しているように見える。それが、この世界の目に見える現実である。

 だが、主イエスは、「時は満ち、神の国は近づいた」(マルコ1章15節)と言われた。神はこの世界をいつまでもこのままに放っては置かれない。神の真実な支配が近づいている。だから私たちは、日毎に「御国(=神の国)を来らせ給え」と祈るのである。

 神の国は遠い「未来」(未だ来らず)のことではない。近い「将来」(将に来らんとす)の希望である。それは必ず来る。そこまで来ている。いや、主イエスにおいて既に始まっている。そして、そのことを信じ、主イエスに従って生きる人々の中に、この私たちの中に、従って教会の中に、「聖霊によって与えられる義と平和と喜び」という神の国の予兆が既に現れている。私たちが聖霊の導きによって「キリストに仕え」(18節)、「義と平和と喜び」のために力を尽くすとき、そこに神の国は始まっている、とパウロは言うのである。

 「義と平和と喜び」とは何か? 「WCCソウル会議」(1990年)のテーマに即して具体的に理解することが許されるであろう。すなわち、「正義(=人権)・平和・創造の保全」(Justice,Peace and Integrity of Creation)。それを目指して「平和や互いの向上に役立つことを追い求める」(19節)ときに、神の真実の支配はここに来ているのである。

今日は世界聖餐日。全世界の主にある兄弟姉妹と共に、聖霊によって与えられる義と平和と喜びを追い求めたい。





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