2007・8・26

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「主よ、あなたはどなたですか」

廣石 望

エレミヤ書20,7-13; 使徒言行録 9,1-20

I

 来月、私たちの教会は創立10周年を祝いつつカンファレンスを開く予定です。そこでは、教会とは何か、聖書とは何かを、一人ひとりの「私」の物語から問い直そうとしています。今日は、パウロの回心の物語、とりわけ「主よ、あなたはどなたですか」という彼の問いかけの言葉を手がかりに、「私は何者なのか」という問いについて考えてみましょう。

今日のテキストは、有名なパウロ回心の物語です。それは、パウロにとって「私は何者なのか」という問いが、人生の一大事になったできごとでした。

回心以前のパウロは、キリスト教会の迫害者でした。ダマスコ教会の会員であるアナニアは、幻に現われたイエスに向かって、「主よ、私は、その人がエルサレムで、あなたの聖なる者たちに対してどんな悪事を働いたか、大勢の人から聞きました」(13節)と言います。できれば、そんな人には会いたくないという意味です。そして回心以後のパウロについては、ダマスコ教会で洗礼を受けた(18節)のち、「すぐにあちこちの会堂で、〈この人こそ神の子である〉とイエスのことを宣べ伝えた」(20節)とあります。

パウロが人生における大きな転換を経験した一方で、ダマスコ教会は、かつての迫害者パウロを自らのメンバーに受け入れました。パウロはキリストが「選んだ器である」(15節)という啓示を信じて。アナニアはパウロに「兄弟サウルよ」(17節)と呼びかけています。ですからここにあるのはパウロ個人の物語であると同時に、彼を受け入れた共同体の物語です。

II

皆さんの多くは洗礼を受けておられますが、そのときのことを覚えておられますか?

いわゆる幼児洗礼を受けた人には、そのときの記憶はないでしょう。赤ちゃんのときに授けられますので。幼児洗礼では、家族に新しい子どもが与えられたことを祝って、両親や親戚そして友人たちが集まります。そして「この子をキリスト教会の交わりの中で育てたい」と願って、赤ん坊に洗礼を授けます。つまり個人の自覚より先に、共同体の喜びと希望がそこにあります。

これに対して、志願して受洗した人々にとって、洗礼は自覚的なものです。私自身が受洗したのは小学校5年生のときでした。クリスチャンホームで育って教会学校に通っていた私は、自分の罪を告白し、キリストによるその赦しを信じて、故郷の教会で受洗しました。洗礼式は、ある秋の日曜早朝、教会学校の友人三人と共に、朝もやの立ち込める近所の「一級河川」で行われました。役員その他の方々が、河原でドラム缶に薪を焚いて、暖をとって下さいました。やがて自分の順番が来て、私は水の中に胸までつかり、洗礼を授ける牧師先生の言葉と共に、水の中に沈められました。水中で水平にされたしばらくの間、私は息をとめて、顔の上を流れてゆく乳白色の水を眺めていました。そしてその日の礼拝で私たちは、新しい仲間として会衆の前で新しく紹介されました。もしかすると今でも、私の母教会の礼拝堂脇の小部屋の壁一面に、受洗した会員の写真が貼ってあるかもしれません。小学5年生の私の写真は、髪の毛がまだぬれていました。そこにはまだ青年のころの父や母の写真も、また曾祖母や祖父母の写真もありました。――私は一人の人格として自立したいと願ったのだろうと思います。

III

いま私自身の受洗について少し語りましたが、パウロ自身は、回心の前後、つまりキリスト教の迫害者からキリスト教の宣教者になったという転換については語りますが、その真ん中にあったはずの御子の啓示のできごとについては、使徒言行録とは違って、たいへん控えめにしか語ろうとしません。

せいぜい次の二箇所が問題になるていどです。「しかし、私を母の胎内にあるときから選び分け、恵みによって召しだして下さった神が、御心のままに、御子を私に示して、その福音を異邦人に告げ知らせるようにされた」(ガラテアの信徒への手紙1,15-16)、そして「〈闇から光が輝き出でよ〉と命じられた神は、私たちの心の内に輝いて、イエス・キリストの御顔に輝く神の栄光を悟る光を与えて下さいました」(コリント信徒への手紙二4,6)。

そのときのパウロの個人史的な状況や、前後の心境の変化などについて、ぜひ彼の口から直接聞きたいものだと思います。しかしパウロ自身は自分のことよりも、彼を動かしたものについて、つまり私的なことよりも公的なものについて語ります。それでもパウロ自身、苦労も多かったその人生の中で、いくどとなくダマスコ途上でのキリスト顕現の体験を思い起こしたことでしょう。そしてその記憶は、彼を励ましただろうと思います。

IV

パウロ本人とは対照的に、使徒言行録の著者ルカは、彼の回心について計三度も報告します(9章22章26章)。それは、大使徒が生まれた瞬間の物語を聞きたいという大衆的な願望に即したものであったかもしれません。しかし、それだけとも思われないのです。三つの報告を簡単に比較してみましょう。

まず9章では、言行録の語り手ができごとの経緯を時間軸に沿って物語ります。まずパウロのダマスコでの迫害活動(9,1-2)が、次にキリストの顕現(3-9節)が語られます。そこには「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか」というイエスの語りかけ、それに対する「主よ、あなたはどなたですか」というパウロの問い返し、そして「私はあなたが迫害しているイエスである」というイエスの返答が含まれます。これに続いて、幻に現われたキリストと、ダマスコ教会の会員であるアナニヤとの対話(10-16節)のユニットがあります。そこには、「行け、あの者は、異邦人や王たち、またイスラエルの子らに私の名を伝えるために、私が選んだ器である」(15節)という、パウロへの委託に関するキリストの発言があります。そして結びには、アナニアとパウロの出会い(17-20節)について、つまり目からうろこのようなものが落ちてパウロが再び見えるようになったこと、洗礼を受けたこと、食事をもらったこと、そしてパウロがキリスト宣教を始めたことが報告されます。

使徒言行録の全体的なテーマとの関連で重要なのは、パウロが回心をへて「異邦人の使徒」になってゆくことです。パウロは言行録の後半部分のほぼ唯一の主人公です。この主題が、9章では主イエスからアナニアには告げられますが、パウロにはまだ伝わっていないことに注意してください(15節)。

 第二の報告である22章では、舞台はエルサレム神殿です。パウロは神殿の階段の上に立って民衆にヘブル語で語りかけます。ここでも、まず迫害活動について(22,1-5)、続いてキリスト顕現について(6-11節)語られます。つまり9章と同様です。これに対して、パウロへの異邦人伝道の委託(12-15節)は、アナニアから直接パウロに告げられています。「私たちの先祖の神があなたをお選びになった。それは御心を悟らせ、あの正しい方に会わせて、その口からの声を聞かせるためです。あなたは見聞きしたことについて、すべての人に対してその方の証人となる者だからです」(14-15節)。その後、しばらくしてパウロはエルサレム神殿で幻視を体験し、はっきりと異邦人伝道の召命を受けます(17-21節)。

 そして最後に、つまり三度目に、パウロの回心体験が物語られるのは26章です。場面は、パウロが身柄を拘束されているローマ軍の駐屯地カイサリアです。そこでパウロは、総督フェストゥスおよびユダヤの王ヘロデ・アグリッパと姉妹ベレニケの前で弁明することを許されて、彼の個人史を語ります。ここには迫害活動の報告(29,1-11)とキリスト顕現の報告(12-18節)の二つのユニットしかありません。しかも注目すべきことに、顕現したキリストが直接的にパウロに異邦人伝道を委託しています。「起き上がれ。自分の足で立て。私があなたに現れたのは、あなたが私を見たこと、そしてこれから私が示そうとすることについて、あなたを奉仕者、また証人にするためである。私はあなたをこの民と異邦人の中から救い出し、彼らのもとに遣わす。それは、彼らの目を開いて、闇から光に、サタンの支配から神に立ち帰らせ、こうして彼らが私への信仰によって、罪の赦しを得、聖なる者とされた人々と共に恵みの分け前に与るようになるためである」(16-18節)。もはや目が見えなくなったこと、アナニアとの出会い、洗礼などは言及されません。

V

使徒言行録の著者ルカは、なぜ三度もパウロの回心の物語を、しかもヴァリエーションを加えながら語ったのでしょうか。

とりわけ三つの物語に共通しているのは、パウロが教会を迫害したこと、そして顕現したキリストとの対話――「サウル、サウル、なぜ私を迫害するのか?」「主よ、あなたはどなたですか?」「私はあなたが迫害しているイエスである」――の要素です。

これに対して大きな相違は、いま申し上げたように、パウロが異邦人伝道の委託を受けるその仕方です。9章でそのことは、キリストとアナニアの対話を通して読者には知らされますが、パウロ自身は知りません。これに対して22章では、この委託がアナニアの口からパウロに告げられます。さらに26章に至ると、顕現のキリストが直接パウロにこのことを告げています。

つまりルカは、一方では、パウロの個人史に対する大衆的な関心を満たそうとしているようでもあります。しかし同時に他方では、パウロが自分の体験と、いろいろな人の手を通して担われてきたことを結び合わせ、それらを神から託された彼自身の使命に向けて自覚的に受けとりなおしていったプロセスを描いているようです。ルカは読者が三つの物語を比較することを予想しつつ、熟慮の上で、同じできごとを三度物語り、演出に変化を加えていると思います。

するとここには、あるメッセージが同時に響いているのではないでしょうか。すなわち「君の歴史の真実も、神から見るとき、つまり神が人々を介して君に与えた使命を、君が自覚してゆく中で初めて明らかになる」というメッセージです。ルカは、たんに過去の偉人の人生の一こまを再現しているだけではなく、むしろ彼の現在の読者たち一人ひとりにとって、大切な、そして何度でも起こるできごとについても暗示的に語っているのだと思います。

VI

私たち皆が、パウロのような劇的な体験をするわけではありません。彼のような明瞭さを自分の人生について得ることは、必ずしも容易ではありません。そのことを暗示する、一篇のすてきな詩があります。


だれがほんとをいうでしょう、
わたしのことを、わたしに。
  よそのおばさんほめたけど、
  なんだがすこうしわらってた。

だれがほんとをいうでしょう、
花にきいたら首ふった。
  それもそのはず、花たちは、
  みんな、あんなにきれいだもの。

だれがほんとをいうでしょう、
小鳥にきいたらにげちゃった。
  きっといけないことなのよ、
  だから、いわずにとんだのよ。

だれがほんとをいうでしょう、
かあさんにきくのは、おかしいし、
  (わたしは、かわいい、いいこなの、
  それとも、おかしなおかおなの。)

だれがほんとをいうでしょう、
わたしのことをわたしに。

(金子みすゞ「だれがほんとを」、『金子みすゞ童謡集』ハルキ文庫版より)

私のことは私自身が、誰よりも一番分かっているはずなのに、実際にはそれがとても心もとないのです。他人である「よそのおばさん」に尋ねても仕方がありません。「花」や「小鳥」に尋ねても答えはありません。それに一番近しい「かあさんにきくのは、おかしいし」。

人は、自分が何者であるかを、決定的な仕方で言うことはおそらくできません。理由はいろいろありえます。自分を客観的に見ることは究極的には不可能です。かといって他人の評価を「はい、そうですか」と鵜呑みにしたところで、他人に代わってもらうことのできない私の人生を生きてゆくことはできません。やはり自分で分かるしかないのです。それでも自分の中に答えはありません。生きているかぎり私は人生の途上にあり、私の生は完結していないからです。キリスト教的には、それは神から与えられるということになるのでしょう。

VII

パウロは、ある決定的な出会いの中で、「主よ、あなたはどなたですか」と問いました。彼に与えられた「私はあなたが迫害しているイエスである」という返答は、すでにそれ自体が赦しの言葉です。そしてパウロは、アナニア(ダマスコ教会)、バルナバ(アンティオキア教会)、そしてペトロ(エルサレム教会)といった多くの人々の導きを得てまったく新しい人生に導かれ、しだいに新しい自覚に目覚めてゆきました。自分の正しさを暴力でもって貫徹させる生き方から、三日間目が見えず、食べることも飲むこともできなかったという苦しい暗闇を通り抜けて、磔にされて殺されたイエスに神の平和と和解の福音が現われたことを、民族の境を越えて宣べ伝える者にパウロはなった――そうルカは物語っています。

これは「だれがほんとをいうでしょう、わたしのことをわたしに」という問いに対する一つの答えを示唆しているように思います。つまり、かつてパウロが問うたという「主よ、あなたはどなたですか」という問いが、私のもの、私たちのものになるとき、私たちは神の前で、また歴史と現在における共同体の広がりの中で、自らの使命を自覚させられてゆくのだと信じます。



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