2007・7・29

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「高ぶる者は低くされる」

村上 伸

イザヤ書 2,6-17;マルコ福音書 10,35-45

 イザヤが預言者として神に召されたのは、紀元前739年と考えられている。その少し前、743年頃から、時代は大きく変わり始めていた。東に超大国アッシリヤがティグラト・ピレセル三世の下に覇権を拡大し、強大な軍事力をもってパレスチナ地方に進出しつつあった。この王は、ペリシテの諸都市、サマリヤ、ダマスコ、そして北王国イスラエルを脅かして、莫大な貢納金(戦争協力金)を要求したのである。これら諸国はイヤイヤながらこれに応じたが、アッシリヤへの反感が強まったのは当然である。こうして、反アッシリヤ軍事同盟が結成された。

 イザヤの母国ユダもこの渦中にあり、反アッシリヤ軍事同盟に参加するように誘われたが、それよりもアッシリヤと同盟関係を結ぼうとした。今日の所でイザヤが、「この民はペリシテ人のように東方の占い師と魔術師を国に満たし、異国の子らと手を結んだ」(6節)と言っているのは、そのことである。

 「ペリシテ人」というのは、地中海沿岸地方、今日よく話題に上るガザの辺りに住み着いていた民族で、古来ユダヤ人との間にいざこざが絶えず、いわば民族の「宿敵」であった。そのペリシテ人の考え方・生き方を真似するようにして、ユダは今東方の「占い」や「魔術」に安易に頼っている、とイザヤは批判したのである。また、「異国の子ら」(アッシリヤ人)と安易に手を結ぶなど、自らの立場(アイデンティティー)を簡単に放棄している、とも批判した。真の意味で主体性を欠いている。戦争の深い反省からやっと自らのものとした憲法9条を簡単に捨てるのと同じことだ。

 さて、イザヤは続けてこう言った。「この国は銀と金に満たされ、財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない」(7節)。これは、ユダ王国がアッシリヤと軍事同盟を結ぶために莫大な金銀を集め、それを軍備に注ぎこんだことを指しているのである。

 もちろん、イザヤが生きていた時代は2700年も前で、政治・経済・軍事などの状況はあらゆる点で現在とは違うから、単純に現代と比べることは出来ない。しかし、「この国は銀と金に満たされ、財宝には限りがない。この国は軍馬に満たされ、戦車には限りがない」という言葉は、少しだけ表現を変えれば、今の日本にも立派に当てはまる。たとえば、こういう風に――。

 「この国は巨大企業とメガバンクが集めた未曾有の収益に満たされ、民の福祉以外のことに使う金には限りがない。この国は圧倒的な装備を誇る米軍とその下請けである自衛隊に満たされ、戦車・ミサイル・最新鋭戦闘機・イージス艦その他の武器には限りがない」。

 このような道を選んだユダ王国は、根本のところで進む方向を間違えたのだ、とイザヤは言ったのであった。「この国は偶像に満たされ、手の業、指の造った物にひれ伏す」(8節)。これは、人間が自分の手で造った物、つまり、富や権力を偶像にしてしまった、という意味である。富や権力は偶像化され、あたかも神であるかのように崇められる。これはイザヤの時代に限らない。

 その結果、「人間が卑しめられ、人はだれも低くされる」(9節)。この批判は、現代世界にそのまま当てはまるのではないか。今、少数の抜け目のない人達が稼ぎ出す金は、「あるところにはある」と一般の庶民が呆れる程の額に達し、それを元手に行われる「マネーゲーム」も節度を欠いた仕方で、しかも国境を越えて世界中に広がっている。それは「人間を卑しめる」ことではないか。世界中でどれほど多くの人が、この格差社会の負け組に入れられ、「卑しめられて」いることであろう!

 イザヤは言う。「彼らをお赦しにならぬように」(9節後半)。つまり、共に生きるべく定められた人々を卑しめるようなことは、神がお赦しにならない。そのような心ない仕打ちに対しては、いつか神の裁きが下る、というのである。

 アウグスティーヌスがある時、「キリスト教で一番大切な教えは何ですか」と質問されたことがある。彼は「フミリタス」と答えた。ラテン語の辞書で引いてみると、「フミリタス」には悪い意味の訳語が並んでいて、びっくりする。「卑劣」・「下品」・「無力」・「意気地なし」等々。しかし、「謙虚」という意味もあって、アウグスティーヌスが言いたかったのはこれであろう。

 では、謙虚とは何か?

 「主を畏れることは知恵の初め」(箴言1章7節)と言われているように、いと高き神の前で、天地万物の創造主である神の前で、そして、「独り子をお与えになったほどに、世を愛された」(ヨハネ3章16節)神の前で、畏敬の念に打たれて頭を垂れる。これが知恵の初めであり、そして、謙虚の初めでもある。この畏敬から出発して、神がお造りになった他の人々や他の被造物をも畏敬する。決して卑しめたりしない。謙虚とは、そういうことだ。

 このことを忘れた人は、「高ぶる者」である。その意味で「高ぶる者」は、必ず傲慢になる。そして、このような高ぶりと傲慢は、主の御心に逆らう道に他ならない。だからイザヤは、「万軍の主の日が臨む、すべて誇る者と傲慢な者に、すべて高ぶる者に」(12節)と言うのである。

 彼は続けてこうも言っている。「その日には、人間の高ぶる目は低くされ、傲慢な者は卑しめられ、主はただひとり、高く上げられる」(11節)。

 高ぶる者は低くされる! これは世界の歴史が証明しているところではないか。



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