2007・6・24

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「キリストの忍耐」

村上 伸

エレミヤ書1,4-10;テモテへの手紙一 1,12-17

 今日、我々が読んでいる『テモテへの手紙』は、使徒パウロが最も信頼していた弟子のテモテに宛てて個人的に書き送った書簡と言われる。テモテとは何者か?

 彼については『使徒言行録』16章に簡単な紹介がある。それによると、小アジア州リストラの出身で、母はユダヤ系のキリスト教徒、父はギリシャ人だった(1節)。パウロはこの町で初めてテモテと会い、伝道旅行に「一緒に連れて」(3節)行きたくなった程、その人柄に惚れ込んだらしい。それ以来、テモテは弟子というよりもパウロの最も身近かな協力者として同行した。必要な場合には、パウロから特別な使命を与えられて各地の教会に派遣されたりもしている。その上、フィリピ、コロサイ、テサロニケなどの諸教会に宛てた手紙には、パウロの共同発信人として名を連ねている。『テモテへの手紙』の冒頭に「信仰によるまことの子テモテへ」1章2節)とあることからも、その信頼の度合いが察せられよう。

 さて、今日の箇所では、パウロがこの息子のような同労者テモテに対してまことに真摯に語りかけているのを感じる。偉ぶったり、年長者としての体面にこだわったりはしない。とくに、自分の恥ずべき過去を隠さずに打ち明けているところが胸を打つ。「以前、わたしは神を冒涜する者、迫害する者、暴力を振るう者でした」13節)。また、「わたしはその罪人の中で最たる者です」(15節)。

 これらの言葉は、かつて彼がキリスト教徒迫害の中心人物であったことを指しているのである。彼はその頃、キリスト教会の有力な指導者であった「ステファノの殺害に賛成し」使徒言行録8章1節)、「家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」同3節)。こういう過去があったために、パウロは回心してキリスト教徒になってからも、教会内で中々信用してもらえなかった。その「負の部分」を、彼はここで率直に告白しているのである。

 普通、こういうことは中々言いたくないものだ。自分が過去に犯した恥ずべき過ちは、なるべくなら隠しておきたい。「南京大虐殺」や「731部隊」、「従軍慰安婦」、あるいは「沖縄戦での集団自決」など、戦争中に日本軍が犯した忌まわしい罪が指摘される度に、この国の似非歴史家や政治家がこれを認めようとせず、「証拠がない」などと言い張って隠蔽しようとするのは、そのような心理が働いているからであろう。だが、そのようにして真実を偽ることは、却って人間としての品位を落とすことになる。このことにどうして気づかないのだろうか?

 私はこの頃、よく妻の父のことを思い出す。彼は銀行家だったが、お金のことばかり考えているような人ではなかった。人間の在りようや生き方に深い関心を寄せていた。あるとき、フランスの生物学者で医者でもあるアラン・ボンバールが書いた『実験漂流記』という本について熱っぽく語ったことがある。ボンバールは独自のサバイバル理論を持っていて、かねて「人は食料も飲料水も持たずに大西洋を越えることができる」と主張していたのだが、自分の主張を証明するために、1952年、全く食料も飲料水も持たずにゴムの筏で実験的な漂流に乗り出し、実際に大西洋を横断して見せたのである。人は自分が語った言葉に責任を負わなければならない、そこに「ディグニティー」(Dignity)がある、と父は英語を使って言った。その英語が独特の意味合いで響き、今日に至るまで忘れることができないのである。

 「ディグニティー」とは、外面的な風采とか態度について言われるときは「威厳」とか「重々しさ」という意味だが、彼はこの言葉を人格の内面について使ったと思う。自ら責任を負う「潔さ」、あるいは「気高さ」のことだ。人はそのような「気高さ」を身につけなければならない、というのだ。

 この「気高さ」(Dignity)という言葉を、私はここでパウロに当てはめたい。彼は、自分の過去の罪を率直に告白した。それは、彼の「気高さ」を損ねただろうか? 日本の政治家たちならそう考えるかもしれない。しかし、事態はむしろ逆なのである。パウロが自らの暗い「負の部分」を隠蔽せず、体面に囚われずに率直に打ち明けたことは、むしろ彼の「気高さ」を高めた、と私には思われる。

 この率直さは、キリストが「わたしを強くしてくださった」12節)という、感謝に満ちた信仰に支えられている。パウロは、ただキリストの「憐れみを受けた」13節)ことによって、暗い過去の重圧から立ち直った人である。だから、彼は「わたしたちの主の恵みが、キリスト・イエスによる信仰と愛と共に、あふれるほど与えられた」14節)と言うほかはなかった。また、「わたしが憐れみを受けたのは、キリスト・イエスがまずそのわたしに限りない忍耐をお示しになった」16節)からだ、と言う。キリストの忍耐!このことが信じられるとき、人は自分を偽ってまで罪を隠蔽するという不毛な業から解放される。そのことへの感謝をこめて、パウロは「『キリスト・イエスは、罪人を救うために世に来られた』という言葉は真実であり、そのまま受け入れるに値します」15節)と言ったのである。

 同じように真実で、そのまま受け入れるに値するような言葉が『ヨハネの手紙一』にある。それを読んで、今日の説教を終わりたい。「自分の罪を公に言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、罪を赦し、あらゆる不義からわたしたちを清めてくださいます。罪を犯したことがないと言うなら、それは神を偽り者とすることであり、神の言葉はわたしたちの内にありません」1章9-10節)。


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