今日のテキストの20節以下は、「家を建てる」仕事を連想させる。先ず「土台」(20節)という言葉が出てくるし、「かなめ石」(同)、「建物全体」(21節)、「聖なる神殿」(同)、「神の住まい」(22節)といった言葉も使われる。特に、「共に建てられる」(同)というギリシャ語は、文字通り「家を建てる」という意味である。ここでパウロがイメージしているのは木造建築ではない。エフェソ辺りでよく見かける石造りの工法である。先ず、しっかりとした土台石を据える。その上に順番に石を積み上げて行き、最後にアーチの頂点に最も肝心な石をはめ込む。これが「かなめ石」である。
だが、その敷地に荒れ果てた建物が残っている場合はどうするか? 地震が来れば崩壊する危険があるから、先ずその廃墟を取り壊さなければならない。こうして危険を取り除き、サラ地にした上で、新しく家を建てる作業にとりかかる。
主イエスが人々の間でなさった仕事は、ここでは「家を建てる」ことになぞらえられる。彼は、あたかも熟練した建築家のように、先ず危険な廃墟を取り壊し、そこに新しく土台石を据え、皆が祝福された生活を共に送る家を建てた、というのである。
では、取り壊されるべき「廃墟」とは何か? 「敵意という隔ての壁」(14節)である。実際に、パウロの時代、エルサレム神殿の庭には「隔ての壁」なるものがあって、ユダヤ教徒以外の異邦人はそこから先に入ることを禁じられ、禁令を破る者は死をもって罰せられたという。宗教が差別を生み出すことの一例である。
むろん、ユダヤ教徒にとって「律法を守る」ことは大切だ。しかし、その律法をもっぱら自己の義しさを誇るため・他者を排除するための道具にするとき、律法の本来の意味は見失われる。かつてのパウロ自身がそうであったように、「律法主義」(原理主義)は宥和不可能な対立を生じさせ、差別と敵意は際限もなく拡大再生産される。
だが、主イエスはご自分の命を犠牲にして「敵意という隔ての壁」を打ち壊した、というのだ。パウロがここに書いている言葉の意味はまことに重く、そして深い。「実にキリストはわたしたちの平和であります。二つのものを一つにし、御自分の肉において敵意という隔ての壁を取り壊し、規則と戒律ずくめの律法を廃棄されました。こうしてキリストは、双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現し…十字架によって敵意を滅ぼされました」(14-16節)。
「敵意という隔ての壁」。それは今日も至る所に存在する。最も典型的なのは、イスラエルがパレスチナ側からのテロ攻撃を防ぐという名目で築いたコンクリートの壁だろう。これは、完成すれば全長622kmにも達するという、馬鹿馬鹿しく長大なもので、見上げる程の高さがあり、見る者に恐ろしく・威圧的な印象を与える。実際、現地では「敵意の壁」と呼ばれているらしい。この壁は目に見えるが、目に見えない「敵意の壁」は多くの人の心の中に築かれている。それを無くすことは容易ではない。
だが、主イエスは、その「敵意の壁」を取り壊された! どのようにしてそれは可能であったのか? ご自分の苦しみを通してであった。『ペトロの手紙一』2章21-24節に、「キリストはあなたがたのために苦しみを受け、その足跡に従うようにと、模範を残された…ののしられてもののしり返さず、苦しめられても人を脅さず…十字架にかかって、自らその身にわたしたちの罪を担って下さいました」とある通りである。こうして彼は、「(敵対する)双方を御自分において一人の新しい人に造り上げて平和を実現」(15節)された。これこそ、神の永遠の意志である。そうである以上、どんなに頑丈に見えても、「敵意の壁」はいつか取り壊される。
1989年11月9日、「ベルリンの壁」が事実上崩壊した。4半世紀以上もそこにあり、「それが無くなることなど考えられない」と多くの人が思っていた壁が落ちたのだ。東独にいた私の多くの友人は、その晩、感動の余り声をあげて泣いたという。そういうことが世界の歴史の中で実際に起こったということを、我々は心に留めなければならない。もちろん、それですべての問題が解決したわけではない。取り組むべき課題は多く残されている。だが、「敵意の壁」は永遠的なものではない。
大江健三郎さんは、2003年の秋に、若い人々のために一冊の美しい本を書いた。『「新しい人」の方へ』というタイトルで、ゆかり夫人の可愛らしい挿絵つきである。彼自身の言葉によれば、彼がこの本を書いたのは、「子どもたち、また若い人たちに、『新しい人』になってもらいたい」というメッセージを伝えるためであった。
「新しい人」という言い方はどこから来たのだろうか? 大江さんによると、彼がこの言葉に出会ったのは、今日我々が読んでいる『エフェソの信徒への手紙』においてであったという。15節である。彼は次のように書いている。
「(その言葉は)次のような意味で使われていました。キリストは平和をあらわす。それは、対立してきた二つのものを、十字架にかけられたご自身の肉体をつうじて、ひとつの『新しい人』に造り上げられたからだ。そしてキリストは敵意を滅ぼし、和解を達成された…。私は、なにより難しい対立のなかにある二つの間に、本当の和解をもたらす人として、『新しい人』を思い描いているのです。それも、いま私らの生きている世界に和解を作り出す『新しい人(たち)』となることをめざして生き続けて行く人、さらに自分の子供やその次の世代にまで、『新しい人(たち)』のイメージを手渡し続けて、その実現の望みを失わない人のことを、私は思い描いています」(176頁)。
聖書のメッセージの、これ以上に的確な捉え方があるだろうか?