ヨハネ福音書3章にはニコデモという人物が登場する。「ファリサイ派に属し…ユダヤ人たちの議員であった」(1節)というから、ユダヤ人社会で指導的な立場にあった。その人が「ある夜」(2節)イエスを訪ねて来た。イエスと直接に語り合いたいという強い願いを持っていたのであろう。だが、そのことが他の仲間に知れると、立場上具合が悪い。そこで「夜」、人目を避けてやって来たのだと思われる。
さて、彼がイエスと会って最初に発したのは、「ラビ、わたしどもは、あなたが神のもとから来られた教師であることを知っています。神が共におられるのでなければ、あなたのなさるようなしるしを、だれも行うことはできないからです」(2節)という言葉であった。これは、口先のお世辞でも、対話を滑らかに進めるための修辞法でもない。彼は他のファリサイ人とは違ってイエスに対する偏見や敵意は持たず、むしろ敬意を抱いていたらしい。その気持ちを率直に言い表したものと理解したい。このことは、ヨハネ福音書の他の箇所からも明らかである。
たとえば7章では、イエスの話を聞いて心を打たれた下役たちを、祭司長やファリサイ人が決めつける場面がある。「お前たちまでも惑わされたのか。議員やファリサイ派の人々の中に、あの男(=イエス)を信じた者がいるだろうか。だが、律法を知らないこの群衆は、呪われている」(47-49節)。その際、ニコデモは勇気ある発言をして、イエスをかばおうとした。「我々の律法によれば、まず本人から事情を聞き、何をしたかを確かめたうえでなければ、判決を下してはならないことになっているではないか」(51節)。そのために彼は、祭司長たちから、「あなたもガリラヤ出身なのか。よく調べてみなさい。ガリラヤからは預言者の出ないことが分かる」(52節)と逆襲されて、立場を悪くしてしまった程である。
また19章には、イエスの死後、アリマタヤのヨセフが遺体を引き取りに行ったことが書いてあるが、そのとき、「かつてある夜、イエスのもとに来たことのあるニコデモも、没薬と沈香を混ぜたものを百リトラばかり持って来た」(39節)とある。これも、イエスに対してよほどの敬意を抱いていなければできないことだ。
このように、ニコデモはユダヤ人の中では柔軟な考え方をするほうで、イエスを尊敬していた。しかし、疑問も感じていたのである。たとえば、「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」(ヨハネ1章17節)とあるように、弟子たちの間ではイエスは「モーセ律法を超える存在」と信じられていたけれども、ファリサイ派の一員であるニコデモにとって、これはそう簡単に受け入れられることではなかった。いつかはイエスと直接会って、この点について確かめたい。ニコデモはそう思ってわざわざやって来たのではないか。
さて、イエスはニコデモの願いに誠実に応えられた。「人は、新たに生まれなければ、神の国を見ることはできない」(3節)という言葉は、ニコデモの疑問に対する真正面からの応答と言えよう。「神の国」とは、モーセ律法を完成するような「神の愛」の現実のことである。それはイエスと共に既に来ているのだが、このことは、新たに生まれないかぎり信じることができない、とイエスは言われたのである。
これに対してニコデモは、「年をとった者が、どうして生まれることができましょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることができるでしょうか」(4節)と反問した。緊張に満ちた対話が始まった。
「年をとった者」とはニコデモ自身のことだろう。この自分が、どうして新たに生まれることができるか? もう一度母親の胎内に入って生まれることができるか? ニコデモはそう問うたのである。ある注解者は、これを「愚問」と切り捨てた。しかし、そんなことはない。イエスご自身は、決して「愚問」とは見なされなかった。
年を重ねて「得られるもの」は沢山ある。蓄積された人生経験、それによって深められた知恵、等々。しばらく前、あるウイスキーのCMに、「時は流れない。それは積み重なる」というのがあった。そこに出てくるイギリスの俳優は、若い頃「大根役者」と評された人だが、髪も髭もすっかり白くなった今、何とも言えない味が出てきた。こうした例は少なくない。この教会にも高齢者が多いが、これは神の祝福なのだ。
しかし、反面、「年をとる」ということは何かを「失う」ということでもある。体力はもちろん、記憶力も衰えていく。脳細胞は毎日万単位で破壊されているという。力が失われるというだけではない。何よりも「失われた時」への嘆きがある。「もう一度やり直したい」と後悔することは、誰にでも一つや二つはあるものだが、過ぎ去った年月を取り戻すことは最早できない。だから、「年をとった者が、どうして新たに生まれることができましょう?」というニコデモの言葉は、今の私にはよく分かる。
これに対してイエスは、人は「水」と「霊」によって新たに生まれる、と答えられた。「水」とは洗礼のことである。バプテスマのヨハネはヨルダン川の水で洗礼を授けた。水は表面を洗い流すに過ぎないが、肝心なのは「霊」である。そして、「霊」とは、「思いのままに吹く」(8節)風のように入って来て、人を内面から動かす神の自由な働きである。この「霊」が私たちを新たに生まれさせる、とイエスは言われる。人には、霊による新生の可能性が老若男女の区別なく与えられている。このことを信じたい。
イエスはまた、「わたしたちは知っていることを語り、見たことを証ししている」(11節)と言われた。これは地上で実際に経験される現実だ、というのである。そのような実例が私たちの間でも珍しくないことを、私たちは知っているのではないか。