ヨハネ福音書14〜16章は、イエスが十字架の死を前にして行った「告別説教」と言われる。そこには、大筋で次のようなことが書かれている。――いまだかつて神を見た者はいない。だが、人はイエスを知ることによって神を知る。イエスによって「互いに愛し合いなさい」(13章34節)という新しい掟を知った者は、神を見たのだ。だからイエスは、「わたしを見た者は、父(神)を見たのだ」(14章9節)と言い、「わたしは道であり、真理であり、命である」(同6節)と言う。そして、このイエスが弟子たちに命じる。「父がわたしを愛されたように、わたしもあなたがたを愛してきた。わたしの愛にとどまりなさい」(15章9節)と。この明るい光のようなメッセージ。これが「告別説教」の第一の主題である。
だが、イエスは「光」についてだけでなく、「闇」についても語っている。これを見逃すことは出来ない。この世は、「互いに愛し合う」ことを命じたイエスを受け入れようとしない。これが「闇」である。この世はまた、イエスに従って愛に生きようとする者たちをも拒む。イエスが、「わたしがあなたがたを世から選び出した。だから、世はあなたがたを憎む」(15章19節)とか、「人々はあなた方を会堂から追放するだろう」(16章2節)と言われたのはそのためである。
この「光」と「闇」を受けて、イエスは「告別説教」を締めくくる。それが今日のテキストの結びの言葉である。「あなたがたには世で苦難がある。しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」(33節)。イエスは「あなたがたには世で苦難がある」と言って深い闇を示しつつ、しかし「勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」と言って、導きの光を与えるのである。
だが、一体「苦難」とは何だろうか? 個人的な苦労や悩み、すなわち、生活苦・病苦・愛の苦しみといったことを連想する人が多いかもしれない。それは間違いとは言えない。だが、プライベートな問題に限るのは、視野が狭すぎるであろう。
既に述べたように、これは「告別説教」の中の言葉である。イエスは自分がこの世に受け入れられず、「苦難」を受けて殺されることを覚悟し、弟子たちに別れを告げている。その中で「あなたがたには世で苦難がある」と言ったのだ。だから、この「苦難」はイエスの十字架との関連で理解されるべきであろう。つまり、「あなたがたには、この世で、私と同じような苦難が降りかかるだろう」という意味だ。そして、それは要するに、「互いに愛し合いなさい」という掟が踏みにじられるという、根源的な苦しみを意味するのである。
「互いに愛し合う」ことの第一歩は、隣人ときちんと向き合ってその人を偏見なく見ることだが、これがこの世にはしばしば欠けている。そのために、憎悪・誹謗・中傷から戦争まで、あらゆる苦しみが始まるのである。このようなことは、歴史上、数限りなく起こった。いわゆるキリスト教国においても、他者を見る目は自己中心的な高ぶりによって歪められ、「互いに愛し合いなさい」というイエスの掟は無残に踏みにじられて、それが人種差別・魔女裁判・植民地支配など、もろもろの苦難を生み出す原因となった。そして、それは現代まで続いている。
平和の哲学者カール・フリードリッヒ・フォン・ヴァイツゼッカーは、イエスの「山上の説教」が現代政治にも有効であると説いた人だが、特に「敵を愛せよ」という戒めの意味を次のように説明した。「敵を理解するように努めること、彼の状況に身を置き、彼の立場から世界を見、彼の関心や希望、彼の不安や傷ついた心を知るように努力すること」。このように相手と正しく向き合えば、苦難は避けられるだろう。
先週、北海道に住む娘が来て、ここしばらく悩まされている足腰のしつこい痛みについて語ってくれた。かかりつけのお医者さんは、コンピュータの画面を見るばかりで、自分の方を向いてもくれず、痛いところに触りもしない、と言って嘆くのである。イエスが病人を癒やされたときは、そうではなかった。福音書の多くの箇所に、イエスは目の前で苦しんでいる人をじっと見て、手を伸ばして触り、優しい言葉をかけたということが書いてある。これが医療の根本ではないか。
イエスと正反対の態度を取ったのが、ファリサイ派の律法学者たちである。彼らは、生身の人間をちゃんと見ず、律法の条文の方を杓子定規に重んじた。そして、イエスが苦しんでいる人への愛ゆえに敢えて些細な違反をした時、それを咎めて、遂にはこの高貴な人物を「律法違反」の罪で処刑した。これが、イエスの「苦難」の正体である。そして、弟子たちも、この世にある限り同じような苦難に遭うだろう。
しかし、イエスは続けてこう言われた。「しかし、勇気を出しなさい。わたしは既に世に勝っている」。
「勇気を出す」というのは、無理をして、歯を食いしばって頑張ることではない。単純に、「イエスが既に世に勝っている」と信じることである。
先ほど紹介したK・F・v・ヴァイツゼッカーは、「山上の説教」が「・・・は幸いである」という直説法で始まっていることに注目し、「祝福の直説法」と名づけた。「・・・ねばならぬ」という命令法でも、「死に物狂いで頑張れ」という無理な激励でもない。神の国が来るという約束、祝福の約束をそのままに受け取り、肩肘を張らずに自分の全存在を神の手に委ねることである。その時に、静かな勇気が湧いてくるであろう。