2007・4・29

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「善をもって悪に勝つ」

村上 伸

イザヤ書2,1-5;ローマの信徒への手紙12,9-21

いきなり何のことだと訝しく思われる方もあるかもしれないが、今日は夢の話から始めたい。フロイトの『夢判断』を引き合いに出すまでもなく、自分の見た夢について語るのはある意味で冒険である。しかし、私は敢えてありのままを語りたい。

しばらく前に、私は恐ろしい夢を見た。誰だか分からないが、一人の男が後ろから私を羽交い絞めにしているのである。逞しい右腕を私の首に巻きつけて、ぐいぐい絞めてくる。息がつまる。その時、彼の拳が私の口の直ぐ前に見えた。私は苦しさから逃れようとして、思いっきり男の手に噛みついたが、それは私自身の左手だったらしい。私は激痛に目を覚ました。親指の付け根あたりに3箇所の深い咬み傷があり、血が流れていた。直ぐ起きて消毒し、包帯を巻いたが、それからはもう眠れない。私は激烈な痛みに耐えて呻いていた。眠れないまま、考えたことがいくつかある。

先ず、イエスが両手と両足を十字架に釘付けされたときの痛みはこんなものではなかったろうな、ということだった。ちょうど受難節の頃だったからだろう。

次に、「聖痕」(Stigma)という言葉を思い出した。「聖痕」とは、キリストが傷を受けたのと同じ箇所、すなわち、手・足・わき腹・額などに傷が生じるという超自然的現象のことである。最も有名なのはアッシジのフランチェスコで、アルベルナ山中で十字架につけられたキリストの幻を見たときに「聖痕」が生じたと、伝説は伝えている。フランチェスコだけではない。今までに「聖痕」を受けた人は330人以上にのぼるという。カトリック教会はこの不思議な現象を神による奇跡と見なし、その中から60人が「福者」、あるいは「聖人」に列せられた。

この傷は医学的治療によっては治癒しない。しかし、傷口が化膿したり症状が悪化したりすることもない。その人は、生涯その傷の痛みを感じながら生き、キリストの苦しみを自らの肉体で証しし続けるのだ、と信じられている。

私の場合は、悪夢に魘されて自分で噛み破ったのだから、むろん、「聖痕」である筈はない。しかし、私はこの手の傷跡を見る度に思い出すだろう。私は「善をもって悪に勝て」という聖書の教えに従って生きたいと心から願っているにもかかわらず、いざとなれば「悪に悪を返す」人間に過ぎないということを。あの夜、私が眠れなかったのはむろん傷の痛みのせいでもあったが、それ以上に私を苦しめたのは、私にも原始的な報復本能があり、「やられたらやり返せ」という行動に出る人間だ、と思い知らされたことであった。この心の痛み!これは今後もずっと私についてまわるだろう。

さて、今週私たちは60回目の「憲法記念日」を迎える。しばらく前から改憲の動きが俄かに活発になったことはご承知の通りだ。改憲派の人たちは、「60年も経てば憲法だって古くなる、世界の現実に合わせて新しくしなければならない」と言う。特に北朝鮮の核ミサイルや中国の軍備増強に対抗してこの国を守るためには、ちゃんとした軍隊が必要だし、いつでも武力行使ができるように憲法を変えなければならない。「平和憲法を守ると言う村上牧師だって、自分を守るために相手の手に噛みつくではないか、それが人間の自然な姿なのだ」と皮肉られるかもしれない。

人間には自己防衛本能や報復本能があることは確かである。私もそのことを、文字通り「手痛く」思い知らされた。だが、「自分を守ろうとして相手の手に噛みついたら、それは自分の手であった」というのは実に象徴的ではないか。原始的な報復本能は、結局は自分をも傷つけるのだ。人類は長い時をかけてこのことを学んできた。「やられたらやり返せ」という原始的な報復思想は少しずつ乗り越えられ、「共生」に向かって前進してきた。これこそが、大局的に見た世界の現実なのである。

今日のテキストを書いた使徒パウロも、かつては正義を口にしながら暴力を肯定する人間であった。『使徒言行録』によると、その頃サウロと呼ばれていた彼は、「ステファノの殺害に賛成し」8章1節)、「家から家へと押し入って教会を荒らし、男女を問わず引き出して牢に送っていた」同3節)。そして、「なおも主の弟子たちを脅迫し、殺そうと意気込んで」9章1節)ダマスコへ向かった。その途中で、彼はイエスの声を聞いて回心し、根本的に変わったのである。

それからのパウロは、暴力的な報復を全く断念して生きた。彼は「あなたがたを迫害する者のために祝福を祈りなさい。祝福を祈るのであって、呪ってはなりません」ローマ12章14節)と教えた。また、「だれに対しても悪に悪を返さず・・・」(同17節)と言い、「愛する人たち、自分で復讐せず、神の怒りに任せなさい」19節)、さらに、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(21節)と命じたのである。

だが、彼は気楽にこれらの言葉を口にしたわけではない。彼は少し前まで「迫害する者」だったのだ。その彼を、イエスは決して呪わず、むしろ祝福を祈ってくれた。そのことをパウロは深い痛みとともに学んだのである。

私たちは理想的な人間ではない。一皮剥けば、心の底には「やられたらやり返せ」という原始的な報復の衝動がある。そのことは認めざるを得ない。だが、だからと言ってそこに開き直ることは正しくないであろう。深い痛みをもってこの現実を認め、その上でそれを乗り越えることを願う。これが人類の悲願ではないか。

その意味で、私たちの国の憲法は、崇高な歴史的使命を持っているのである。私たちキリスト信徒から見ても、特に、主権在民・基本的人権・戦争放棄という三本柱は、聖書の教え、とりわけ預言者イザヤの精神やイエスの教えに非常に近い。人類の将来のためにも、これはどうしても守り通したい。



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