2006・12・3

音声を聞く(MP3, 32kbps)

「我らの歩みを平和の道に」

村上 伸

イザヤ書 9,1-6;ルカ福音書 1,67-79

 ルカ福音書 1章67-79節は、一般に『ザカリアの賛歌』という名で呼ばれる。イエスの先駆者であるヨハネが生まれた時、父親のザカリアが語った預言である。諦めていた子どもが、こんなに歳をとってから生まれたのだ。妻エリサベトと共にどんなに喜んだか、想像に難くない。

 しかし、この賛歌を読むと、ザカリアは「子どもが生まれた」という単純に喜んだというよりは、「神がこの子を通して何か計画しておられるのではないか」という畏れに打たれたように見える。いわば歴史的な意味について思い巡らしているようだ。これは私たちの場合も同じだ。どんな子も無意味には生まれるわけではなく、その子にしかない独自な意味をもって生まれてくる。そのことに思いを致すならば、親は畏敬の念を禁じえないのである。

 先々週、Sさん・Cさんご夫妻のところに、小さいけれども元気な女の赤ちゃんが生まれた。私たちはそのことを心から祝福したが、その喜びは単純なものではなかった。障害者に対する偏見がまだ根強いこの国で、しかも韓国人として生きて行くためには、なお多くの山坂を越えなければならないだろう。私たちは、この赤ちゃんを、そしてこの家族を守りたい。私たちの心には、そのような祈りがある。そして、「ピ」という愛らしい名前を与えられたこの赤ちゃんは、私たちの中に「祈りの環」を誕生させてくれた。このことに歴史的意味があると言うのは大げさだろうか?

 さて、ザカリアも自分の息子の誕生には歴史的意味があると感じて、畏れに近い思いを抱いたようである。それは、次のような言葉となって溢れ出た。「ほめたたえよ、イスラエルの神である主を。主はその民を訪れて解放し、我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」(68-69節)。

ここで彼は、生まれてきた子の背後に連綿とつながるイスラエル民族の歴史を振り返っている。歴史の回顧から出発して、現在と将来を見据えるためである。

 先ず68節で彼は、「主はその民を訪れて解放し」と言う。これは、1000年以上も前に起こった出エジプトの出来事を指している。次に69節に、「我らのために救いの角を、僕ダビデの家から起こされた」と言う。これはダビデの王国、あるいはダビデの子孫から生まれたとされる主イエスのことであろう。73節に行くと、歴史的にはやや順不同だが、先祖アブラハムと交わされた神の契約(約束)についても言及している。その後で76節に、「幼子よ、お前はいと高き方の預言者と呼ばれる。主に先だって行き、その道を整える」という言葉が来る。これは、前述したように、生まれたばかりのヨハネを見て喜びながら、この子の歴史的使命について述べたところである。そして最後に79-80節では、「この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし」と言っている。これが近い将来のこと、つまりイエスの救いの業を指していることは明らかだ。

 ザカリアは、息子ヨハネの誕生を契機として自分たちが属する民族の歴史を振り返り、また将来を展望した。そして、「出エジプトからダビデへ、そして洗礼者ヨハネからイエスへ」と向かう方向をその中に確認したのである。

 もちろん、自分たちが具体的に生活を営んでいる国について、また自分が属する民族について、その歴史を知った上で、きちんとした理解を持つことは必要である。だが、「民族の歴史」と言う時、人は得てして狭い意味で「ナショナリスト」(民族主義者)になり易い。そして、「愛国心」を必要以上に強調して独りよがりになる。昨今の日本の風潮がそうだ。ザカリアにもその危険がないとは言えない。「我らの敵、すべて我らを憎む者の手からの救い」(71節)という言葉には、ややその傾向がある。

 しかし、それにもかかわらず、ここには狭い民族主義を克服する一定の方向づけがある。それが、「出エジプトからダビデへ、そして洗礼者ヨハネからイエスへ」という方向であり、そしてそれは「これは我らの神の憐れみの心による。この憐れみによって、高い所からあけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らし、我らの歩みを平和の道に導く」(78-79節)という言葉に収斂していく。

 「暗闇と死の陰」。これは、端的に言って、戦争とそれがもたらす悲惨な結果のことだ。世界の至る所に、そして今は、特にパレスチナやアフガンやイラクに、暗闇と死の陰が覆っている。特にやりきれないのは、これらの地域では、「平和を守るため」と称する指導者たちの政策によっていつでも戦闘が始まるという事実である。だが、「戦争によって平和が守られる」などということは決してない。戦争がもたらすものは、一層ひどい憎しみと破壊と殺戮、すなわち暗闇と死の陰以外ではない。

 しかし、歴史を支配する神は、そのような愚かなことは望まれない。「あけぼのの光が我らを訪れ、暗闇と死の陰に座している者たちを照らす」ことを望まれる。そして、「我らの歩みを平和の道に導く」。これが神の意志であり、この世界の歴史に内在する方向である。そして、神が「我らの歩みを平和の道に導く」ということを証しするのがヨハネの歴史的使命だ、とザカリアは信じて打たれたのであった。

 預言者イザヤは、かつて「主は国々の争いを裁き、多くの民を戒められる。彼らは剣を打ち直して鋤とし、槍を打ち直して鎌とする。国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない」(イザヤ書2章4節)と語った。この聖句は、世界中のあらゆる良識ある、善意の人々の願いを代表している。これこそが「平和の道」なのだ。そして、この道に歩むことが、真に「新しい時代に相応しい」生き方なのである。

礼拝説教集の一覧
ホームページにもどる