最初に、週報の裏面に印刷した名簿について説明しておきたい。これは基本的には、1997年に「上原教会」と「みくに伝道所」とが合同して「代々木上原教会」になってから天に召された教会員(及びそれに準ずる方々)の名簿である。合同前のことも忘れるわけには行かないが、「上原教会」のほうは赤岩先生の下で戦前も長く活動してきたので、全部のお名前を書くことは難しい。そこで、現在の私たちと特に関係の深い方々のお名前に限らせて頂いた。加藤愛子さん(1995年没)から上がそれである。合同前の「みくに伝道所」の二人のメンバーも、ここに入る(黒川弘さんと田宮信子さん)。黒川輝さんから下が、両教会合同後に召された方々である。なお、名簿の最後に、教会員ではない福岡洋介さんのお名前がある。この方は陶山先生の教え子で今年4月に召天され、この会堂で葬儀が行われた。ご夫人がその後熱心に礼拝に出席しておられることを考慮して、今年の名簿に載せたのである。
既に天に召されたこれら敬愛する信仰の先達や懐かしい信仰仲間のことを、私たちは忘れない。また、ここに名前はなくても私たちにとって大切な人たちのことを忘れない。そして、この人たちは今、神の懐に抱かれていると信じて御手に委ねる。ご出席のご遺族・関係者の中には、まだ悲しみの中にある方々もおられると思うが、神がお一人お一人に平安と慰めを与えられると信じ、そのために心から祈る。
さて、暫らく マタイ6章19-21節 のイエスの言葉に眼を向けて頂きたい。
先ず、「あなたがたは地上に富を積んではならない」(19節)とある。抽象的に「富」というよりは、具体的に「宝物」と言った方がいい。高価な衣類、貴金属などのことだ。もとのギリシャ語も、「宝」や「宝物倉」を意味する言葉である。
昔から、多くの王侯・貴族は金にあかせて「宝物」を買い集めた。どの国にもある立派なコレクションがそのことを示している。それらは世界文明を体験するためには意味があるが、金持ちや権力者の「欲の深さ」の証拠でもある。純粋に「美しいもの」・「高価なもの」に惹かれて集めたという面もあるかもしれないが、有り体に言えば、自分の権力・財力を誇示するという動機の方が強かったのではないか。
このような金持ちや権力者を、イエスは相手にしない。彼が相手にしてこの話をしたのは、普通の、どちらかといえば貧しい民衆である。彼らは、将来の生活を考えて「なけなしの」お金を貯めたり、一寸した衣類やメダルなどを貴重な宝物のように大事にしまい込んで万一の時に備えていたのであろう。「保険」のような発想もあったかもしれない。
だが、イエスは、富を蓄えることによって自分の生活を守ろうという考えは危い、と教える。その理由として彼は、地上では「虫が食ったり、さび付いたりするし、また、盗人が忍び込んで盗み出したりする」(19節)、ということを挙げている。万一の時に備えて宝を蓄えても、それで安心というわけには行かないと言うのである。第一に「虫が食う」。「虫」とはある種の蛾の幼虫のことで、衣類につく。防虫剤などがなかった昔は、大切にしている衣服でも簡単に食われてしまったのである。第二に「さび付く」。これは、高価な金属にもいつの間にか錆がついて価値を失う、という意味だろう。別の昆虫のことだという説もあるが、要するにイエスは、「安心できない」と言いたいのだ。第三に「盗人が忍び込んで盗み出したりする」。これは、「忍び込む」というような生易しい行動ではない。この原語は、「壁に穴を開ける」という意味だという。当時、コンクリートはなかったから、民衆は藁や小枝を編んだものに泥を塗って壁にするか、せいぜい天日干しの煉瓦を積み上げるなどの方法で家を建てた。だから、熟練した泥棒にとっては、壁に穴を開けて押し入るぐらいはわけもないことだったのである。
このように、宝を蓄えてもそれを確実に守る方法(今日盛んに宣伝されているセキュリティー!)がない以上、地上に宝を積むのは愚かなことだ、とイエスは言う。しかし、それだけではない。それ以上のことを言外に暗示しているように思われる。それは、自分の命が明日もあるという保証はどこにもないという根本的な事実である。
ルカ福音書12章13節以下でイエスは、ある金持ちの畑が豊作だったという話をしている。金持ちは大いに気をよくして、倉を大きなものに建て替え、その中に穀物や財産を全部収納して、「さあ、これから先何年も生きていくだけの蓄えができたぞ。ひと休みして、食べたり飲んだりして楽しめ」(19節)と言って大喜びしていた。ところが、神から「愚かな者よ、今夜、お前の命は取り上げられる」(20節)と告げられる。この金持ちはパニックに陥った、という話である。そしてイエスは、「自分のために富を積んでも、神の前に豊かにならない者はこのとおりだ」(21節)と締めくくる。
「神の前に豊かになる」とはどういうことだろうか? マタイで「宝は天に積め」と言われたことと同じ意味であろう。明日も分からぬ命のことを考えれば、決して安全とは言えない地上の宝に自分の心を預けてそれに執着するよりも、他に先ずなすべきことがある筈だ、とイエスは警告するのである。
私たちはやがて神のみ前に召し出され、「何を儲けたか」ではなく、「どのように生きたか」、すなわち、「どのように他者を愛しようとしたか」を問われるであろう。その時に神のみ前で、慎ましくてもいい、何か積極的な答えをすることができるだろうか?「宝を天に積む」ということは、このことと関係がある。そして、私たちが今日記念している方々は、私たちより先にその道を歩み、その門を潜り、そのように答えることができた人たちであると信じる。