2006・10・15

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「信仰と行為」

村上 伸

イザヤ書 1,11-17;ヤコブの手紙 2,1-13

 『ヤコブの手紙』は紀元1世紀の終わりか2世紀の初め頃に、パレスチナ以外の各地に離散して暮らすキリスト者に宛てて書かれた手紙と言われている。1世紀の終わり頃だとすれば、イエスの十字架と復活というあの大きな出来事から60年か70年ぐらい経った時期である。多くの人々の心の中には、主イエスの記憶はまだ生き生きと息づいていたに違いない。私たちの経験に照らしてみてもそう思える。記憶には個人差があるから一概には言えないが、私と同じ年配の方々にとって、たとえば61年前の敗戦の記憶はまだ鮮明に残っているのではないだろうか。

 ヤコブは今日の箇所で、教会の中でイエスの記憶がまだ薄れてはいない筈なのに早くもある傾向が現れたことを憂えている。1節「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てする」(1節)と言い、2節以下ではそれを具体的に「あなたがたの集まりに、金の指輪をはめた立派な身なりの人が入って来、また、汚らしい服装の貧しい人も入って来るとします。その立派な身なりの人に特別に目を留めて、『あなたは、こちらの席にお掛け下さい』と言い、貧しい人には、『あなたは、そこに立っているか、わたしの足もとに座るかしていなさい』と言うなら・・・」と書いているのが、それだ。礼拝に際して、こうしたことが実際に起こったのであろう。

 そこでヤコブは、あなたたちは「主イエス・キリストを信じる」と言っているにもかかわらず、このような差別をするとは何事かと、歯に衣着せぬ叱責の言葉を送ったのである。「あなたがたは自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下したことになる」(4節)。

 教会が成立の当初から完全無欠な「栄光の教会」ではなかったことが、ここからも分かる。教会は、昔から今に至るまで、常に悔い改めを必要とする罪人の集団であった。10月31日は「宗教改革記念日」だが、改革者たちが「常ニ改革サルベキ教会」と言ったのはそのことであり、それを謙虚に自覚するところに教会の意味がある。

 ところで、私は1977年の秋、当時まだ「人種隔離政策」(アパルトヘイト)で知られた「南アフリカ共和国」に2週間滞在したことがある。黒人の「モラビア派教会」に招かれて各地の教会を歴訪し、多くの忘れ難い人々との出会いに恵まれた。

 当時の南アは、次のような社会構成を持っていた。人口の大部分を占める黒人が最下層である。この人たちは元来この土地に住んでいたのだが、後から入植した白人たち(オランダ人、後に英国人)に土地を奪われ、僅かばかりの痩せた土地をあてがわれて貧困に喘いでいた。雀の涙ほどの賃金を目当てに出稼ぎに行くしかない。

 逆に一握りの白人たちが最上層にいて、この国が産み出す富の大部分を独占し、豊かな暮らしを享受していた。そして、両者の中間に、下から「カラード」(混血)、インド人、アジア人(中国人やマレー人)が、それぞれ分離した社会層を形成する。

 私が最初滞在したヨハネスブルクは堂々たる近代都市であるが、南西の町外れには市当局の厳重な管理下に置かれた「ソウエト黒人居住区」(Southwestern Township)があり、「アパルトヘイト」の象徴とも言えるこの地域では、不満を溜め込んだ黒人労働者たちがしばしば暴動を起こしていた。

 郵便局・鉄道の駅・バス・タクシーなど、一切は「白人用」と「黒人用」に分離されており、ホテルも同様であった。日本人は「名誉白人」に分類されていたので、私は「白人用」のホテルに泊まらなければならなかった。毎朝、黒人教会の牧師が迎えに来るがロビーに入ることも許されず、玄関の外に立ってじっと私を待っていた。

 さて、私はこのような「アパルトヘイト」のシステムについて多くのことを聞かされたが、その中に私をひどく驚かせ、憤激させたことがある。白人入植者の大部分は「オランダ改革派教会」(ダッチ・リフォームド)に属していたが、この教会の指導的神学者が「アパルトヘイト」を神学的に正当化したというのだ。つまり、「アパルトヘイト」は神学的に、神の御名において根拠づけられたのである。

 偉大な宗教改革者ジャン・カルヴァンの流れを汲み、主イエス・キリストを信じ、「ただ神にのみ栄光を」を合言葉としていたこのダッチ・リフォームド教会が、このような差別を神の御名において容認したとは殆んど信じ難い。だが、残念ながら、それが歴史的事実なのであった。

 これは教会の誤りである。ヤコブは、当時の教会が貧しい人々を差別したことを見逃さず、あなたがたは「主イエス・キリストを信じながら、人を分け隔てし・・・自分たちの中で差別をし、誤った考えに基づいて判断を下した」(4節)と厳しい叱責の言葉を語った。信仰と行為が一致していない、というのである。主イエスを信じると言うのなら、彼に従って一切の差別を排さなければならない。預言者イザヤの言葉も同じ方向であろう。ヤコブは、そのような差別は神の御心ではないと断言する。

 彼は言う。「神は世の貧しい人たちをあえて選んで、信仰に富ませ、御自身を愛する者に約束された国を、受け継ぐ者となさった」(5節)。続けてこうも言う。むしろ「富んでいる者たちこそ、あなたがたをひどい目に遭わせ、裁判所へ引っ張って行く」(6節)というのが現実ではないか、と。だから、富める者をことさらに優遇し、貧しい者を虐げるのは神の本来の意志に叛くことだ。このように「人を分け隔てするなら、あなたがたは罪を犯すことになる」(9節)。差別は罪である!

 主イエスを信じると告白する教会は、未解放部落の差別・貧富の差別・出自や学歴による差別・社会的階層による差別・人種差別・性による差別・宗教や思想信条による差別など、あらゆる差別を罪として斥けなければならない。

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