2006・10・8

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「働きに報いて下さる神」

村上 伸

イザヤ書49,1-6;ローマの信徒への手紙 10,5-13

 

イザヤ書1-39章と、40-55章の間には、時代背景や思想内容に関して明らかな違いがある。そこで、1-39章を「第一イザヤ」と呼び、40-55章を「第二イザヤ」と呼んで区別するのが通例となっている。そして、今日の説教テキストであるイザヤ書49章は、第二イザヤの言葉である。

 第二イザヤは、紀元前6世紀に活動した預言者であった。539年にペルシャのキュロス王はバビロニアを滅ぼし、ユダヤの捕囚民を解放したが、その頃のことである。だから、第二イザヤは「慰めよ、私の民を慰めよと、あなたたちの神は言われる」40章1節)という言葉で始まる。「苦役の時はいまや満ち、彼女の咎は償われた」2節)。解放を経験した人でなければ語れない、喜ばしく力強い言葉だ。このような美しい言葉を、彼は多く語った。代表的なのは40章28-31節だろう。「あなたは知らないのか、聞いたことはないのか。主は、とこしえにいます神、地の果てに及ぶすべてのものの造り主。倦むことなく、疲れることなく、その英知は究めがたい。疲れた者に力を与え、勢いを失っている者に大きな力を与えられる。若者も倦み、疲れ、勇士もつまずき倒れようが、主に望みをおく人は新たな力を得、鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない」。素晴らしい言葉ではないか!

だが、もっと素晴らしいのは、『主の僕』を主題とした不思議な詩である。全部で四つあって、最初が『主の僕の召命』(42章1-4節)。次が、今日の説教テキストである『主の僕の使命』(49章1-6節)。第三が『主の僕の忍耐』(50章4-11節)。そして最後が、『主の僕の苦難と死』(52章13節-53章12節)である。

 一体、「主の僕」とはどのような生き方をした人なのか? 最初の歌(42章)では、神に選ばれ・喜び迎えられ・神の霊を与えられて「裁きを導き出す」1節)、と言われている。「裁き」とは公平と正義、つまり、公正のことだ。だから「主の僕」とは、公正を行い、大言壮語せず、黙々と弱い者を助け、「傷ついた葦」を折ったり、「暗くなってゆく灯心」を消したりしない人(3節)、「島々」、つまり世界の果てに至るまで公正を実現するために生きる人、自分はこのために神によって召されたという「召命」の自覚をもって生きる人のことである。これは誰のことを言っているのだろうか?

今日のテキストである49章は後で取り上げることにして、先に『主の僕の忍耐』(50章4節以下)を見てみよう。ここでは「主の僕」とは、神の言葉を聞く鋭敏な耳を備え、それを正確に語る口を持ち、それによって疲れた人を励ます人である。だが、そのために背中を打たれたり、ひげを抜かれたりという散々な目に遭う。それでも敢えてその嘲りを甘受し、じっと屈辱に耐え抜く人だ。これは、誰のことか?

 最も有名な『主の僕の苦難と死』(53章)という歌では、「主の僕」はこのような生き方をさらに徹底する。彼はカッコいい英雄ではない。「見るべき面影はなく、輝かしい風格も、好もしい容姿もない」2節)。「軽蔑され、人々に見捨てられ、多くの痛みを負い、病を知っている」3節)人であり、全く自分に責任はないのに、「捕らえられ、裁きを受けて、命を取られた」8節)人である。だから、こう言われる。「彼の受けた懲らしめによって、わたしたちには平和が与えられ、彼の受けた傷によって、わたしたちはいやされた」5節)。「主の僕」は、他の多くの人々に真の平和(シャローム)をもたらすために、代償的な苦難をわが身に引き受ける。これは誰のことか? イエスと非常に似ているのではないか?

 ここで、今日の説教テキストである『主の僕の使命』(49章)に立ち返って考えてみたい。「主の僕」は、「母の胎に」1節)いるうちから神に選ばれたと言う。神の意志によって、つまり自分の意志に反して、容易ならざる使命を与えられたのだ。それは、「鋭い剣」2節)のように罪を抉り出す神の言葉、「尖らせた矢」(同)のように刺し貫く「厳しい神の言葉を語る」という使命である。しかし「主の僕」は、この神から与えられた使命と、自分なりに理解していた使命との間にギャップがあることに気づき、そこで挫折した。「わたしはいたずらに骨折り、うつろに、空しく、力を使い果たした」4節)。こういう人物が実在したのだろうか?

 「主の僕」が誰かということについては、「イスラエル」説・「キュロス」説・「終末のメシア」説など諸説がある。しかし、これまで見てきた特徴を考えると、第二イザヤ自身と重なってくるのを否めない。先に述べたように、第二イザヤは本来、「慰めを語る」ことに自分の使命を見出した預言者であった。キュロス王がユダヤ民族を捕囚から解放して故国への帰還を許してくれたとき、彼は実際、そこに慰めと希望を見出したのである。44章では、彼はキュロスを「わたしの牧者」28節)と呼び、「わたしの望みを成就させる者」(同)と評価した。彼にとってキュロスは「主が油を注がれた人」45章1節)、つまり、ほとんど「メシア」に等しい存在であった。

 だが、この期待は直ぐに裏切られる。キュロスは確かにイスラエル民族を解放してくれたが、畢竟、異教を信じる外国の王に過ぎないということを暴露する。しかも、祖国への帰還も、生活の再建も、肝心の同胞の利害関係が絡んで簡単には実現しない。第二イザヤはここで挫折したのである。彼は「主の僕」の歌に託して自分自身のことを語ったのではないだろうか。

 そして、ここで「主の僕」について言われていることは、教会にも当てはまるであろう。教会に与えられた使命、神に召されたという自覚、そこで抱く希望、そして挫折。だが、その「働きに報いてくださるのはわたしの神である」4節)と第二イザヤは言った。彼にとっても、私たちにとっても、これ以上確かな支えはない。

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