2006・8・13

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「諸国民の預言者」

村上 伸

エレミヤ書1,4-10; エフェソの信徒への手紙4,25-32

 エレミヤは紀元前7世紀の半ばから6世紀の初めにかけて活躍したユダヤの預言者である。今日読むエレミヤ書1章4-10節「エレミヤの召命」という所で、ここを注意深く読めば、彼がいかなる預言者であったかということが分かる。

先ず、神はエレミヤに語りかける。「わたしはあなたを母の胎内に造る前から、あなたを知っていた。母の胎から生まれる前に、わたしはあなたを聖別し、諸国民の預言者として立てた」5節)。彼が預言者になるということは、神が永遠の昔から定めておられた必然の道であって偶発的な出来事ではない、ということであろう。

このような声が実際に天から聞こえてきたわけではないだろうが、人は人生の重要な転機に直面した時、内面に強い「促し」を感じることがある。パウロがダマスコへ向かう途上で、「サウル、サウル、なぜわたしを迫害するのか」使徒言行録9章4節)というイエスの声を聞いて回心したというのも同じことであろう。

エレミヤやパウロとは比較にもならないが、私のような小さな者にも似たような経験がある。17歳の頃、私は神学校に進もうかと思いながらも中々決心がつかないでいた。そんなある晩、祈祷会からの帰り道、私は突然、心の内に強い「促し」を感じた。まるで神が「行きなさい」と言われたようであった。私はそれに動かされて決断した。それからはもう迷わなかった。

エレミヤの場合は、「召された」とは感じたものの、すんなりとは行かず、抵抗した。モーセの場合も同じである。彼は、エジプトで奴隷にされている同胞を解放せよとの召命を受けたとき強く反発した。「わたしは何者でしょう。どうして、ファラオのもとに行き、しかもイスラエルの人々をエジプトから導き出さねばならないのですか」出エジプト記3章11節)。それに比べるとエレミヤはずっと穏やかだったが、それでも「自分は若すぎる」という理由で一度は召命を拒否したのである。「ああ、わが主なる神よ、わたしは語る言葉を知りません。わたしは若者にすぎませんから」6節)。研究者によると、彼はその時20歳にも達していなかったらしい。

しかし、抵抗するエレミヤに対して、神はこう畳み掛ける。「若者にすぎないと言ってはならない。わたしがあなたを、だれのところへ遣わそうとも、行ってわたしが命じることをすべて語れ。彼らを恐れるな。わたしがあなたと共にいて、必ず救い出す」7-8節)。こうしてエレミヤは遂に神に屈服する。彼は預言者になる。

それから神は、エレミヤに「見よ、わたしはあなたの口にわたしの言葉を授ける」9節後半)と言われた。このことは重要である。今や彼は、自分で築き上げた思想ではなく、「神から預けられた言葉」を語らねばならない。それが「預言者」の存在理由である。易者のように単に先のこと言い当てるのでもない。「神は今、私たちに何を望んでおられるか」ということを、同時代の人々に向かって語らねばならない。「詭弁」や「言い逃れ」ではなく、真っ直ぐに「真実を」語らなければならない。「偽りを捨て・・・真実を語る」エフェソ4章25節)。これが、彼の務めである。

さらに、彼が語る言葉は、自分の民族の中でだけ通用する「独り善がりの」言葉であってはならない。「見よ、今日、あなたに諸国民諸王国に対する権威をゆだねる」10節前半)とあるように、預言者が語るべき言葉は、世界のどの民族・どの指導者に対しても権威を発揮するような、広い視野と雄大な構想を持つ言葉でなければならない。それは、「抜き、壊し、滅ぼし、破壊し、あるいは建て、植えるため」同後半)である。抜かなければならぬ「悪の根」は抜本的に抜く。壊さなければならない「構造的不正」は壊す。滅ぼさねばならぬ「敵意」は滅ぼす。破壊すべき「虚飾」は破壊する。そして、人類にとって真に良い家を建てるために、土台を「岩の上に」マタイ7章24節)据える。将来祝福をもたらすであろう「木」を植える。ルターが「明日世の終わりが来ようとも、今日、わたしは林檎の木を植える」言ったように。

相手が政治的権力者であろうと宗教的権威であろうと、媚びたり恐れたりせず、また人気取りに心を用いず、ただ「神から預かった言葉」を真っ直ぐに人々に向かって語る。預言者とは、そのような存在なのである。

今週、私たちは61回目の「敗戦記念日」を迎えるが、正にこの時に、預言者の在り方について考えるのは有意義なことだ。敗戦を契機に深い反省へと導かれたこの国の教会に、預言者は大切なことを教えてくれるからである。

戦後約20年を経過してから新たに教団総会議長に選ばれた鈴木正久牧師は、1967年春、『第二次世界大戦下における日本基督教団の責任についての告白』(戦争責任告白)を公けにし、その中に次のように書いた。

「『世の光』『地の塩』である教会は、あの戦争に同調すべきではありませんでした。まさに国を愛する故にこそ、キリスト者の良心的判断によって、祖国の歩みに対し正しい判断をなすべきでありました。しかるにわたくしどもは、教団の名において、あの戦争を是認し、支持し、その勝利のために祈り努めることを、内外にむかって声明いたしました。まことにわたくしどもの祖国が罪をおかしたとき、私どもの教会もまたその罪におちいりました。わたくしどもは『見張り』の使命をないがしろにいたしました・・・」。

ここで鈴木牧師は教会の「預言者的な使命」について語っているのである。私たちは今、このことを改めて自覚しなければならない。この国が、又もや「いつか来た道」へ進むのを阻むために。

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