この手紙は、第1世紀の終わりごろ、小アジア(現・トルコ)の諸教会で回し読みされた「回状」である。著者は「イエス・キリストの使徒ペトロ」(1章1節)と名乗っているが、恐らく別の人が何らかの理由でペトロの名を借りて書いたらしい。それはともかく、今日は、この手紙が「各地に離散して仮住まいをしている」キリスト教徒を励ますために書かれた、という点に注目して考えてみたい。
当時、キリスト教徒は、圧倒的に強大なローマ帝国の支配下で暮らす少数者で、さまざまな苦難に遭っていた。「皇帝礼拝」も要求された。日本の植民地統治下で「神社参拝」を強要された朝鮮キリスト者の状況がこれに似ているかもしれない。そのような苦難を、私たちはこの手紙の至る所で読み取ることができる。「あなたがたを試みるために身にふりかかる火のような試練」(4章12節)というような表現も、満更誇張ではなかった。大々的な迫害はまだ始まっていなかったが、ある公文書によれば、キリスト者であること自体が「犯罪」とされ、告訴があり次第処罰されたという。
無力なマイノリティー・グループにとって、こういうことがどんなに辛く、口惜しいことだったか。著者にはそのことが身に沁みてよく分かっていた。それなのに、彼は「悪をもって悪に、侮辱をもって侮辱に報いてはなりません。かえって祝福を祈りなさい」(9節前半)と命じる。そして、それとの関連で詩編34編13-17節を引用した後、「もし、善いことに熱心であるなら、だれがあなたがたに害を加えるでしょう。しかし、義のために苦しみを受けるのであれば、幸いです。人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」(13-14節)と勧めるのである。
ところで、先週は北朝鮮のミサイル発射を巡って、日本の政治家やジャーナリストたちの間で議論が沸騰した。無論、落ち着いた・理性的な観察や分析もあったが、扇情的な記事を売り物にしている新聞や週刊誌などはひどいものだった。とても買って読む気にはなれず、新聞に載る広告の見出しを眺めただけだが、それらの背後には、「やられたらやり返せ」という憎悪が露骨に感じられた。「報復こそが正義だ」と言わんばかりだ。一部には「先制攻撃論」さえ出たという。この種の「売り言葉・買い言葉」は事態を一層悪化させるだけだ。これは人類の過去の経験に照らして明らかなのに、それから何も学ぼうとしないのはどうしたことか。
だが、『ペトロの手紙』の著者は、迫害を受けている仲間を励ますのに、決して「報復」を叫んで大言壮語したりはしない。こうした態度に対しては、当時も「弱腰」とか「敗北主義」といった批判があっただろうと思うが、彼は落ち着いて「人々を恐れたり、心を乱したりしてはいけません」(14節)とたしなめる。直ぐ復讐に走ることを戒め、そういう仕方で悪循環を断ち切ろうとしている。特に意味深いのは、「祝福を受け継ぐためにあなたがたは召されたのです」という9節後半の言葉である。主イエスの「山上の説教」、特に「悪人に手向かってはならない」(マタイ5章39節)という教えが、ここでは正しく受け止められ・受け継がれているからである。
そもそも「山上の説教」は、「幸い」(祝福)を告げる冒頭の言葉(3-12節)が示しているように、全体が「祝福の約束」なのである。イエスの約束を信じて「平和を実現する人々」(9節)は祝福される。イエスの約束を信じて「義のために迫害される[ことを厭わない]人々」(10節)も祝福される。イエスの約束を信じて、彼のために「ののしられ、迫害され、身に覚えのないことであらゆる悪口を浴びせられるとき」(11節)、あなたがたは祝福される。「やられたらやり返せ」という生き方は「憎しみの連鎖」という泥沼を深めるだけで、祝福を受け継ぐことはできない。だが、私たちは、「祝福を受け継ぐために」召されているのである。「憎しみの連鎖」に代わる「祝福の連鎖」に繋がるために!
恐らく人は言うであろう――そんなことを言ったって、現実はそんなに甘くはない。イエスが教えたことは、要するに「綺麗ごと」の理想論だ。悪には力で抵抗しなければ、結局は悪がこの世界にのさばり、正義は地を払うことになる!
この疑問に対して、「非暴力的抵抗」を実践したキング牧師は、およそ次のように答えている。――イエスは「悪人に手向かうな」と教えた。だが、しばしば誤解されているように、イエスはここで「無抵抗」を教えたのではない。それは、あくまでも「抵抗」なのだ。どんなにひどく辱められ・暴力を振るわれても、相手と同じ暴力を行使したりしないから、一見したところ「無抵抗」に見えるかもしれないが、「その時、私の精神は絶えず活発に働いて、悪を行う相手の良心に働きかけているのだ」。決して暴力を返さず、甘んじて苦しみを受けることが「救いにつながる」(redemptive)。相手が恥じ入って心を入れ変えるように祈りながら、悪の根絶を目指して苦しみを引き受ける。これこそこの手紙に勧められている「非暴力的抵抗」に他ならない。パウロも同じことを教えているではないか。「だれに対しても悪に悪を返さず、すべての人の前で善を行うように心がけなさい」(ローマ12章17節)。さらに、「悪に負けることなく、善をもって悪に勝ちなさい」(同21節)。
これは単なる口先の「綺麗ごと」ではなかった。現実に歴史を動かす力を持っていた。インド独立闘争の中でガンジーが採った「非暴力的抵抗」の方法、あるいはアメリカの公民権運動におけるキングの「非暴力主義」の成功は、その証明である。
この点、私たちには希望があるのである。その「希望について説明を要求する人には、いつでも弁明できるように備えていなさい」(ペトロ1 3,15節)。